空のなごり

経験、思ったこと、共感できることなど書いてみました。

3.2 湖の風景(海外旅行)

※3から始まるものは趣味(旅行など)について書きます。

 

山と湖のある風景がとても好きになったのは、カナダ旅行で見たモレイン湖からでした。

今では私の好きな風景1番となっています。

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Canada Moraine Lake

氷河湖はエメラルド色の水を湛えて、緑色の山との対照が本当に美しい。

あまりにも気に入ったので、二度訪れていて、二度目にはモレイン湖そばにあるモレインレイクロッジという高級ロッジに宿泊しました。夜も素敵な湖を見れるなんて本当に幸せだと実感しながら…結局ブランデー入りアレンジコーヒーを普通のコーヒーと勘違いして注文し、ボロボロになって撃沈して眠ってしまいましたが。

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別の日のモレイン湖

今では世界の美しい風景で載るような場所になってしまい、観光客も多くて、落ち着いて湖と対話するような時間がもてなくなってしまったのは残念。でもまた行きたい!

 

カナダ旅行の途中で、現地でワーホリしている日本人と知り合い、その人の勧めでいろんな湖も訪れてみました。レンタカーを運転しての旅行だったので自由がききました。

ツアーで訪れる場所に入っていない湖はなかなかよかったです。

トレッキングツアーもあり、私は秘境と言われるレイクオハラのハイクに参加しました。なんと案内人は日本人女性。日本語だと安心してトレッキングにも参加できました。

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Canada Lake O’Hara

 

ニュージーランド旅行も氷河湖のファンになりました。

南島をクイーンズタウンからマウントクックへ向かう途中にワナカ湖を通りましたが、ここがまた綺麗。

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NZ Lake Wanaka

本当は旅行日程に時間があれば有名なテカポ湖行きたかったんですけれど。いつか行けたらいいな。

ニュージーランドは高速道路と市街地の境目が分かりづらいので、車の速度オーバーには注意しないといけなかったです。実際パトカーに追いかけられました(涙)

 

イギリスの湖水地方にも行きましたが…なぜか大雨でろくな写真が撮れず。ですが、ピーターラビットの庭はとてもかわいくて素敵でした。

 

クロアチアのプリトビチェ国立公園はこれも綺麗でした。でも、大きすぎて途中よく分からなくなりましたね。歩きごたえあります。ザグレブからバスが出ていたので、それに乗って行きました。一日あればじっくり散策できます。結構観光客がいて、自分の速度で歩くことができなかった…のが残念でした。

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Croatia Plitvicka Jezera

 

最後にトルコのパムッカレ。これは…最高の思い出でした。美しいというよりは、トルコ人が楽しすぎて…いい思い出です。

アンカラからパムッカレまで深夜バスで行き、早朝4時にパムッカレのバスターミナルへ。バスが出発する6時までの間、バスターミナルのスタッフとおしゃべり。トルコの人はお話し好きで楽しいです。パムッカレは10時くらいから3時くらいまでうろうろしました。頂上にはローマ遺跡があって、温泉プールもあります。私は水着持っていなかったので入らなかったのですが、持っていたらもっと楽しめたのにとくやしい思いをしました。

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Turkey Pamukkale

現地の人が言うには、パムッカレに前泊して、早朝朝日を反射して赤く染まるパムッカレが最高だよということでした。ああ、また行けたらいいな…。

1.12 薬膳を学んで

乳がんの原因は、結局人それぞれの体質や生活習慣によって違うのではないかと思うようになりました。

そして自分が再発しないためには体質にあった食生活やストレスを軽減した生活をすることが必要だと思うようになりました。

体質にあった食生活というのをどうするかと考えた時、一番分かりやすい指標が「薬膳」でした。食事というのはいろんなものがあり、何がどう私の体に合っているのか分からなかったからです。そういう意味で、体質に応じてどんな食材が私に合うのか分かるものは「薬膳」でした。

私は早速薬膳の授業に参加することにして、専門の知識を持った中国の先生から師事を受けることにしました。

 

薬膳とは、「ある目的に合わせて食材を選び、調理方法を選ぶ食べ方」です。

 よく使われる言葉に

 「治未病」…日常の食事で疾病を予防する。

 「弁証施治」…弁証して疾病の治療のための食事を考える。

 「因証用膳」…症状によって食べるものを選ぶ。

 「因時而異」…時期によって選ぶものが異なる。

 「因人用膳」…人によって食べ物の選び方がある。

 「因地而異」…住む場所によって選ぶ食べ物も異なる。

があります。私にとって大切なのは「治未病」でした。今後の病気の予防をしたいのです。

薬膳の基本概念は「陰陽五行」です。易経など、中国の古代の自然思想からきています。世界全体が調和を保っているというのが分かりやすい言い方になるのでしょうか。つまり、身体も調和が必要で、その調和が崩れたら病が出てくるということ。その調和を保つために食材で毎日補ったり排除したりしなければなりません。

 

ただ、薬膳の詳しい説明は割愛します。

 ※興味のある方は、専門書や教室に通われることをお勧めします。(ネットでもありますが、薬膳の本当の利用法は自分にオーダーメイドのものです。他人が利用している薬膳の調理法が自分に合うとは限りませんから)

 

1年かけて学びました。まだまだ初心者レベルですが、とても勉強になりました。

結局、学んでいく過程で、私の体質は「瘀血」「気滞」ではないかと気づきました。

体温も低かったし、貧血っぽいし、頭痛持ちだし…ぴったりと当てはまりました。

そこで、薬膳のやり方を踏襲して、毎日の料理を変えたところ…いろいろといいことがありましたが、一部悪いこともありました。

いいことは体質改善と、今まで悩んでいた体の問題を解決できたこと。悪いことは肥ったことです。痩せる食材は結構体を冷やすので、薬膳学習中はあまり食べなかったということもあります。

 

私によかったことを書きます。

1.基礎体温が上がったこと。

  温性食材(例えば、エビ、芋類、羊肉等)を選び、生もの少なくして火を通した温かいものを食べるとだんだんと上がっていきました。35度→36.5度へ

2.以前と比べていろんな食材を使うようになった。

  効能が分かると、興味のなかった食材も手に取って買うようになりました。それから香辛料やハーブは沢山買うように。味付けは塩コショウだけではなくなりました。

3.辛いものは私には合わないことが分かった。

  キムチチゲなどの海外料理の辛いものが大好きでしたが、それはお腹を壊すので、私は控えるようになりました。

4.頭痛の対処

  頭痛持ちでしたが、香味野菜などを食べると「気」が巡り、ひどい頭痛にはならなくなりました。今は頭痛になるのも年に数回。以前は週一ありました。

5.不正出血の対処

  ガン治療後、なぜか生理が止まらなくなり、ずっと経血が出ていたので、怖くなり、検査したのですが、異常はありませんでした。結局ホルモンバランスだろうと婦人科で言われたのですが、薬はなく…。

  薬膳、というか、漢方で、不正出血で処方される方剤は「芎帰膠艾湯」という有名なものがあるのですが、これを漢方薬局で処方してもらってもダメ…最終的に自分で調合し、ヨモギ(艾葉)、黄耆、大棗を煮詰め、飲んだところ、3日後から止血されました。その後、不正出血があるたびにこれで飲むと止まり、現在はまったくなくなりました。これも、薬膳で、生薬の勉強をしたからできたことだと思います。

 ※この調合は私のためですので、絶対真似はしないでください。ただ、ヨモギ(艾葉)は止血作用が強く、また日本古来の和漢方ですので、日常使いハーブとして利用するのはとてもいいと思います。

 

食事療法についてはいろんな方法がありますが、自分に合ったものを探すのは難しいです…。病気になってから「これが一番いい食事療法」というのをずっと探していますが、薬膳はとても勉強になり、自分にとってはとてもよかったと思っています。教室での私以外の生徒はすべて薬剤師さんでした(笑)

4.2 春秋左氏伝 傾国の美女(息嬀の場合)

※4から始まるものは春秋左氏伝について書きます。

 

中国の歴史上登場する美女というのは極端な人が多い。特に傾国の美女と言われる女性は皇帝の私生活や政治を乱れさせ、国を衰退に追いやってしまうことが多い。その中でもこの息嬀(そくぎ)は珍しくつつましい女性である。

ちなみに息嬀というのは「息」の国に嫁いだ嬀姓の国(陳国)のお姫様という意味である。

 

左氏伝における彼女の話を紹介。

紀元前684年

息嬀は、陳国から息国へ嫁ぐことになった。

息国へ行く途中で彼女は蔡国に寄ることになってしまう。蔡国の王である哀候は彼女の姉が自分の妻であることを理由に寄らせたのだ。多分、哀候は息嬀が美女であること知っていたのだろう。

息嬀は断ることができず、嫁入り前に姉のいる国へ行き泊まることにした。しかしそこで哀候が息嬀に無礼を働いた。

息嬀は息国に到着した後、夫となる息候に蔡国の哀候の無礼を言ったところ、息候は怒り、楚国の文王に蔡国を討つ話を持ち掛ける。

「私の国に楚の軍を向かわせて下さい。私は蔡国に援軍を乞います。そしたら楚の軍で蔡を討って下さい」

そこで、その年の9月、楚軍は蔡に攻め入り、蔡国の哀候献舞を生け捕り、楚へ連れて帰ったのだった。息候の思惑通り事は運んだのである。

紀元前680年

楚に囚われの身となっていた哀候は、息候を陥れようと楚の文王に「息候の夫人は美人ですよ」と話し、文王の興味をそそらせた。息嬀が気になった文王は息に行って宴会を催し、それに参加した息候をその場で殺した。そして宮中から息嬀を無理やり連れ帰った。とうとう息国は滅んだのである。

息嬀は楚の文王の妻となり、堵敖(とごう)、熊惲(ゆううん、のちの成王)の二人の子を産んだ。文王は息嬀が楽しそうにしていない上、ろくに口も聞かないので、気になって息嬀に尋ねた「子供が二人も生まれたというのに、どうして冷たい態度なのか」すると息嬀は答えた。

「私は、一人の女性で二人の夫に仕えるような身となってしまいました。たとえ死ぬことはできなくても、口をきくなんてことができましょうか」

文王は彼女の言葉を聞いて、蔡の哀候が自分をそそのかして息国を滅ぼさせたことに気づき、息の仇として蔡を7月に攻めた。

紀元前675年

楚の文王死去。息嬀の息子である堵敖が後を継ぐが、揉めて、最終的に熊惲が成王となる。

紀元前666年

文王の弟の子元は未亡人となった息嬀のことが気になり、彼女のいる宮殿の隣に屋敷を作り、大きな音で音楽を流して舞を舞っていた。子元は息嬀に注目されたかったのだが、息嬀の侍女から「文夫人(息嬀のこと)は『子元様が舞っていた舞は文王様が戦の準備のために舞っていたものです。子元様は仇敵に対して舞を舞うのではなく、私に対して舞うなんて、どういうおつもりでしょう』と泣いておられます」と聞き、子元ははっとして「女性にそんなことを言われるなんて」と叫び、敵である鄭を秋に攻めに行った。しかし鄭の人の機転で、戦とはならず、引き返したのであった。

紀元前664年

子元は、息嬀のいる宮中に入り込み、王のような態度で暮らしていた。まだ成王が幼い時であり、政治が不安定になっていた。闘射師が子元を諫めたが、逆に子元に捕らえられてしまった。秋、内乱が起き、令尹であった子元が殺され、代わりに子文が令尹となった。

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華清池の蓮 傾国の美女繋がりで楊貴妃ゆかりの温泉地から

 

息嬀の話はここで終わる。彼女は権力者のせいで被害にあった可哀そうな女性という感じである。当時は女性は反抗できず、権力者の言うことは絶対で断ることはできなかったのだ。話の発端は哀候が彼女に無礼を働いたことから始まる。この「無礼」とは何だろう。左伝の原文では「止而見之弗賓」、つまり「留めて息嬀を見て賓客の扱いをせず」というのが直訳である。

てっきり、いやらしいことでもしたのかと思ったのだが、賓客の扱いをしなかったということから推察するに、単に顔を見たのではないかと思われる。昔の女性は夫となる人にしか本名や顔を見せないという風習があったと聞いているので、嫁入り前なのに、他の男性に顔をみられたのではないだろうか。それで哀候は彼女が美人だと確信できたのだろう。彼女も夫以外に顔を見られ、情けなく恥ずかしい思いをしたので、息候に「蔡候から無礼なことをされました」と伝えたのだと思う。

 

息の国については、この息嬀の問題が始まる前に面白い表現がある。これが左氏伝らしいところだ。

紀元前712年の内容に、鄭国と息国が言葉の行き違いがあり、息が鄭を討った。結局息が大敗した。君子はこのことから、息国がやがて亡びることを知り、こう言った。

不度徳不量力不親親不徴辞不察有罪犯五不イ(表記なし)而以伐人其喪師也不亦宜乎

【意味】徳を測らず、力を量らず、同姓を親しまず、約束を詳しく調べず、有罪を察せず、この五つの不善を犯した上に戦をする、その軍を失うのも当然ではないか。

君子とは、春秋であるから孔子のことであろう。だが私は、これは孔子の名を借りた左丘明の予見、宿命感を説明ではないだろうかと思う。

私が春秋を読んだ感想で思うに、当時の国力の差については

   楚>>>鄭>陳、蔡>>>息

であり、息は身の程もわきまえず、大国楚を利用して格上の蔡を攻めさせ、その王を楚の囚われの身にさせたのだ。しかも過去にも、同族(姫姓)の鄭に対して約束を無視して戦をしている有様だ。そんなことを平気でする息候だから、息嬀の美貌をきっかけに滅亡する運命になってしまったのである。

 

蔡については、今回の息嬀の話の中で楚に攻められた際(紀元前680年)、君子のコメントがある。

君子曰、商書所謂悪之易也、如火之燎于原、不可郷邇、其猶可撲滅者、其如蔡哀候乎。

【意味】君子が言うには、「書経に言うところの、『悪がはびこるのは火が野原に広がるようだ。向かって近づくことはできないのに完全に火を消すことができようか』とは、まさに蔡の哀候のことだ。

君子のセリフは書経の盤庚上に出ているもので、王である盤庚が殷の民に注意する言葉から出てくる。悪いことは簡単に流行するので、最初に消すべき。広がってしまったら取り返しがつかない。ということ。蔡の哀候は陳から嫁いできた女性(息嬀)に軽い気持ちでちょっかいを出しただけだっただろう。だが、それは息国や一人の女性を馬鹿にした行為であり、それが引いては自分の身に降りかかってしまったのだ。悪いことはしてはならないという忠告なのだろう。最終的に哀候は囚われの身のまま楚で亡くなってしまう。

 

楚の子元について。

この女ったらしの王弟について君子のコメントはない。正直、兄の王の愛妻に、兄が亡くなった後、手を出しているのも問題だと思うのだが。

ただ、私は春秋戦国を通して、楚国は女性や金目の物の問題が多いように感じる。多分、他の国も同様なことがあると思うのだが、ひどく目立つのだ。楚はもともと殷より前の時代にある祝融の身分の人の血筋である。周王朝とはゆかりはない。また殷の時代の有名な人の血筋でもない。身分も低い扱いである。それゆえに、周王朝から遠い蛮地に土地をもらい受けた。だが、蛮地で発展し、大きくなるにつれ、周王朝から「王」の称号を無理やりもらい、態度も大きくなる。春秋が書かれた魯国は周王朝の血筋(祖は周公)のお家柄である。当然その国の歴史書を書く人、左丘明も魯という国に誇りを持っていただろう。それゆえに楚のような蛮地に対し、無意識に蔑視していたのではないかと疑ってしまう。こういう欲に正直な行為は慎むべき事柄であるのに、忠告もしないとは。「楚ならこういうことするからね」という意識が働いているとしか思えない。現代でも無意識のバイアスがあると言われるが、当時はもっと強かっただろう。こういう小さいところに人の無意識が出てくるのではないかと私は思ってしまうのだ。だからといって左丘明が差別主義者とは思わないが。当時、楚は礼儀なるものがなかったのかもしれない。

※文中に表記できない繁体字簡体字は日本で通常使われている漢字を当てています。

※参考文献

 〈日本〉全釈漢文大系 春秋左氏伝 上・中・下 集英社

     同      尚書          集英社

     春秋左氏伝 上・中・下 小倉芳彦訳 岩波文庫

     史記世家  上・中・下 小川環樹他 岩波文庫

 〈中国〉中国史学要籍叢刊 左傳 上・下 上海古籍出版社

※最後に、ここに記すのはあくまでも私見である。

1.11 健康管理について2

自分の健康管理をすると、自分の体質というか体のくせが分かってきました。

 そのくせのせいで生じる体の慢性的な症状をどう治療すればいいのかと考えた時、症状が出るたびにもう薬は飲みたくないと思いました。

 やっぱり体に優しい自然のものがいい

と思ったのです。

 そこで利用したのがアロマのエッセンシャルオイルや自然のものでした。

 素人で知識がないので、あれこれ専門書やネット情報などで調べ、自分で使ってみました。

 私の慢性的な症状というのは

 ・喉が弱い

 ・肩が凝りやすい

 ・たまに肌荒れ、ヘルペスができる

 ・体温が低い

というものでした。

 結局、その体質改善に役立ったのはどれも有名なものばかり。

 〇喉の弱さにはマヌカハニー

 正直、以前ニュージーランド旅行した際にたくさん売ってあったので、単なる土産物としてしか見てなかったのですが、どうしてもっとこれに早く出会わなかったのかと後悔したほどいいものでした。喉が弱く、乾燥したら声が枯れる人、風邪が喉から来る人には絶対おすすめです。これのおかげで私は喉が改善しました。風邪も一度も引いていません。

(ただ、オーストラリアで冬の海に潜った時は…旅行中だったこともあり引きましたが)

 〇肌荒れ、ヘルペスにはティーツリー(アロマオイル)

 これは有名なハーブですから説明不要ですね。万能です。お肌に直接濡れる唯一といってもいいものです。ラベンダーは私には合いませんでした。

 〇低体温、肩凝りには温かい食事

 食事には反省しました。野菜がいいからといつも生野菜サラダ、スムージーを取っていましたが、胃腸を冷やし、血行を悪くしていました。ただ、温かい食事は体を肥らせます。どちらがいいかと言えば、肥った方がましってことですかね。

 食事についてはまた後日書きたいと思います。

 乳がんはホルモンバランスが崩れていることが原因ということもあったので、ホルモンバランスを整えるゼラニウム(アロマオイル)を必ずお風呂に一滴垂らして入っています。

 いい匂いに癒されます。そして…生理前緊張症が治りました。これはホルモンバランスが整っていると言えるのでは?と思います。これもティーツリーと一緒で家に常備してあります。

 最後に運動のためにジムに定期的に通うようにしました。明らかな体の変化はありませんが、体重の急激な増大をふせぎ、血流の促進にはとても役立っています。

 ガンの治療が終わった時に、友人にガンを告白したら、いいセラピストを知っているから紹介するよと言って、紹介してもらいました。

 アロマセラピーや指圧をしてくれます。それで私の体の調子が悪いところだったり、私の気づかない緊張部分だったりを教えてくれます。それは、私にとっては体の異変のセンサーのような役目なので、とても重宝しています。また、セラピストはとてもやさしくいろんなことに相談に乗ってくれるので、本当に助かります。

 もちろん、今でもずっと頼りにしている人の一人です。

 相性のいい、誠実なセラピストがいるっているのもいいことですよね。

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NZ Milford Sound

 

2.5 語学の勧め

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台湾の孔子廟 儀式があっていました


 

 吃音のしくみについて詳しい医学論文とかあるのでしょうか。神経的なものや器質的なものなど。なにか詳しい、吃音の研究があれば、吃音の悩みがある者にとって、具体的な改善方法が教えてもらえそうで期待できるのですが…

 以前、言友会という吃音のコミュニティーに参加したことがあります。集まって、自分の状況の話など悩みの打ち明けをしたり、言語聴覚士の人が来て講演会をしたりしていました。私は始め、貴重な経験を積めると喜んでいたのですが、具体的な進歩が私自身に望めない気がして、半年もたたずに辞めてしまいました。

 私は職場の研修で半年ほど、東京の語学学校に通い、中国語を習ったことがあります。

 その時、吃音に変化する瞬間を体験しました。

 中国語は、発音がひどく難しく、母音、子音が多数あり、あげくに四声という独特のアクセントがあります。

 そのため、講師の先生は、まず、母音や子音の発音を覚えさせることを重視して、2か月ほど、ずっと発音練習をさせられました。

 …それが、その発音練習中、どれくらい言わされようと、一度もどもることはありませんでした。

 正直、緊張する場面ですら、一度もつっかかることがなかったのです。

 私としたら、びっくりしました。

 ちなみに、英語はほとんどどもらないので、中国語も似たようなものになるのかも?と淡い期待を寄せました。

 そして、発音練習から簡単な単語となり、挨拶、軽い会話練習と語学は進んでいきます。

 それは、会話練習の時に突然起こりました。

 「一定」という言葉の時です。中国語では「きっと、絶対」というような協調するニュアンスの意味になり、発音は「イーディン」となります。

 この言葉がテキストの会話に入っている時でした。

 突然最初の「イ」が出てこなかったのです。

 講師の先生はびっくりした様子でした。私が突然つかえたようになったので、発音方法を忘れたのかしらと思ったようでした。

 とはいえ、その時はまだまだ初級、「一定」の字の上には発音記号であるピンインが印字されています。発音が分からないはずはありません。

 私はなんとか声をふりしぼって発音しました。

 私は先生以上に動揺していました。吃音というのは事前に予感があり、その予感通りにどもるので、どもる前に別の言葉を入れたりして、ごまかす方法を考えるのですが、この時予感は全くありませんでした。突然だったのです。

 その後、「一定」が全然言えなくなり、挙句にほかの単語も言えない言葉が出てきました。

 それまで話せていたのに…にです。

 どうしてその時「一定」が突然言えなくなったのか?

 私はそれが吃音のしくみのような気がします。

 当時、研修員の間でいざこざがあり、私も困惑していた…というストレスのある環境でした。でも、それだけでしょうか?

 話すことを意識しすぎたのかもしれない…とも思いますが、それなら発音練習はもっと意識するのにどもらなかったので矛盾します。

 まるで、忘れていた吃音を突然体が思い出したかのような瞬間でした。

 吃音は体の癖なのか、それとも神経的なものなのか…?よく分かりませんね。

 ちなみに、現在、中国語で吃音になることはありません。

 それは改善されたというより、中国語を話すとき、単語を思い出すのに必死で吃音になる余裕がない…という感触です。

 もっと流暢に話し出せば、また症状が出てくるのではないかと思ったりします。

 まあ、例え吃音状態になっても、「外国語」ですので、相手の人は「あ、発音忘れたんだな。単語忘れたのかな」程度に思って、気にも留めないので、ある意味、私は楽ですけれどね。

1.10 乳がんの原因とは?健康管理について1

治療中は、よくあるガン克服のための食事をしていました。

 野菜スムージーというのを飲んでいました。おかげで5キロ痩せました…。

 ガン体質を変えたくて、今までにない食事をしましたが、それでいいのか分からなくなりました。

 

 担当医が「バランスのいい食事と運動」をすればいいというアドバイスをくれたのですが、バランスのいい食事って何なんでしょう。

 厚生労働省が出している食事のバランスガイド?

 私はガンになる前、変な食事をした覚えはありませんでした。

 お酒もたばこもしませんし、運動不足かもしれませんが週に一度はヨガ教室に通っていました。

 お肉よりもお魚が好きで、青魚はほぼ毎日食べていましたし、野菜だって取らない日なんてありません。

 でも、職場で見かける人で、毎日カップ麺を食べている人、夜は毎日居酒屋で飲んでいる人は私の年齢でガンなんてなっていません。

 私と何が違うのでしょう? 

 ガンの原因について調べてみました。

 ストレス

 免疫の疾患

 食事の偏り

 遺伝

 などなど。乳がんに特化して調べると、乳製品、ヘアカラー、抗生物質、悲しみ、性格…とあれこれ出てきます。

 果たして何が私に当てはまるのか?と自問自答しましたが、はっきりしたものは分かりませんでした。

 先生によれば、私の乳がんは長期間かけて作られたようで、エコーでなんとか存在が分かる程度になるまで10年ほどかかったのではないかということでした。

 私は10年間、この細胞の異形成を育ててきたということなのでしょうか。

 私って10年間どんな生活してきたかしら?

 ますます原因が分かりませんでした。

 原因が分からないと、今後も同じような症状が出てくるのではないかと心配になりました。

 そこで、自分の健康ノートなるものを作ることにしました。

 どこか年配の人が書いているというのをネットで見たのがきっかけなのですが、毎日の自分の生活を記録するものです。

 毎日、体温、体重、体調、食事内容を細かく記録し、食事と体の関係を知るノートです。

 それから、私は一切薬を飲むのを止めました。以前は頭痛、ちょっとした発熱などが起こると、休暇を取れないという気持ちからすぐ薬を飲んでいたのですが、それを止めました。その代わり頭痛などがあれば、無理をせず休むか、少しでも和らげる方法を取ることにしました。

 結果…。ノートは3か月くらい付けました。

 すると、自分の体が少し分かってきました。そして私って、今まで体の声を聞いたことがなかったんだということも分かりました。

 小さな発疹、かすかな頭痛、たまに起こる足のむくみ。

 これって大したことないことだし、無視していましたが、これらすべて体からのサインなんですよね。ちょっと問題が起こってるよって。

 私は生まれてこのかた、こういう体からのサインをずっと無視してきて、たまに悪化した時は無理やり薬で止めて…って、体のこと全く考えていなかったんだと気づきました。

 もしかしたら、それがガンの原因じゃないかなって。

 きっとガンができる前、身体はなにがしかのサインを出していたと思うんです。

 それを無視し続けたせいで、とうとう大きくなったのだと。

 本当に反省しました。

 そして、自分に合わない食材や行動も分かってきました。

 たくさんを気づきを与えてくれた健康ノートに感謝です。

4.1 春秋左氏伝について

※4から始まるものは春秋左氏伝について書きます。

私は中国古代史が好きで、昔からよく漢文を読んでいた。そしてある時から、すっかり春秋左氏伝のファンになってしまった。

はじめはたいして面白くもない歴史書だと思った。しかし、何度か読むにつれて、この作品を書いた左丘明の考えがなんとなく分かって来ると、共感を覚えて好きになってしまったのである。

それで、ブログを利用して、私なりの解釈や心に残る内容などを、素人目ではあるものの記してみることにした。

 

最初に、春秋について簡単な説明をする。(なお、参照にした文献は最後に記載)

春秋というのは中国の周の時代の前半(西暦紀元前722年から479年の間)の歴史書である。

周王朝は、建国直後、一つの帝国としてまとまりが良かったが、周の王が親族や功績のあった臣下に任せた地域がそれぞれ力をつけ始め国となり、軍を動かして覇を唱えるようになったため、群雄割拠の時代を迎えてしまった。周王は名ばかりとなり、各国の長が我が物顔に他国を攻め、滅ぼしたり、利用したりするようになったのである。

周の建国の王である武王の弟、周公が王から与えられた土地が魯であり、この魯が残した歴史書が春秋という。

そのため、歴史書とは言っても、魯から見た各国の動き、魯国内の政治が書かれており、年代記となっている。

日本の昔の知識人は春秋で勉強して儒学を習ったようだが、よく読んだなと感心してしまう。実際、楽しく読もうと思っても、「〇〇年〇月 ××があった」というような堅苦しい内容で、ぱっと読んで面白くないものである。

だが、この面白くもない文章の一言一句には裏の事情が込められており、それを知ることで、春秋の本来の意味、内容の価値、歴史に託したかった作者の想いが分かるのだ。

 

春秋には三つ種類があり、それを三伝と言い、それぞれ「公羊(くよう)伝」「穀梁(こくりょう)伝」「左氏(さし)伝」がある。

日本の本屋、図書館に行っても、実際「春秋左氏伝」しか置かれていない。私もそれにはびっくりした。多分、公羊伝も穀梁伝も日本には伝えられていると思うのだが…中国とは違って、左氏伝が好まれたため、左氏伝だけ残ったのではないかと思う。…まあ大学などの研究所には公羊、穀梁もあるのだろうが。

春秋の三伝の違いについて述べる

「公羊伝」とは

  本来口伝といって暗記して伝える歴史書であった。

  由来は、子夏(孔子の弟子)→公羊高→子平→子地→子敢→子壽→斉の人(この段階で初めて口伝から竹や布に記されたらしい)

  中国ではこの公羊伝が春秋の一番正しいものとしての認識が高く(後漢の時代から)、一番研究されていたようである。

 

「穀梁伝」とは

  由来は、子夏(孔子の弟子)→穀梁俶(穀梁氏はこの後数人続くため省略)→荀卿(荀子のこと)→浮丘伯(荀子の弟子)

  これは荀子がテキストとして使っていたといわれる春秋である。

  内容的には公羊伝とほぼ一緒

 

「左氏伝」とは

  孔子ではなく、左丘明(はっきりしないが、魯国の文官だったようだ)が著作したもの。別に「国語」の作者でもある。

  由来は、左丘明→曽申→呉起→呉期→〇〇(特殊漢字のため表記できず)→虞卿→荀卿(荀子のこと)

  途中、呉起がでてくるところがびっくりなのだが、これは楚の有名な軍師の呉起がかかわったのだろうか?

この後、前漢時、途切れるのだが、王奔の乱が起こった際、劉歆が宮殿の書庫に保管されていた左氏伝を発見し、注釈を加えて世に出した。

ただ、この事件のおかげで、左氏伝は正当な春秋ではない烙印を押され、中国での儒学研究の際はあまり重要視されていないようだ。

 

また、文面を見ると、「公羊伝」と「穀梁伝」はほぼ同一のもので、「左氏伝」は異質のものであると認められる。極端な違いは、文章中の「経」と「伝」の量と内容である。

  「経」とはその年の行事を示し「〇年 戦争があった」など。

  「伝」とは出来事の詳細を示し「〇〇と××がいがみ合い、▽▽の地で決闘を行った時、民衆まで参加を始めて戦争になってしまった」など。

  「公羊伝」と「穀梁伝」は経がたくさん載せてあり、伝は少ない。

  「左氏伝」は経が少なく、伝がたくさん載せている。歴史小説風になっている。

実際の例として、閔公二年の冬の部分の記載を挙げてみる。

〈公羊伝〉

  経 十有二月 狄(てき)入衛

  (十二月、狄国の軍が衛に入った。)「経」の部分のみの記載

〈穀梁伝〉

  経 十有二月 狄(てき)入衛

  (十二月、狄国の軍が衛に入った。)「経」の部分のみの記載。公羊伝と全く同じ。

〈左氏伝〉

  経 十有二月 狄(てき)入衛。

  → 経の部分 (十二月、狄国の軍が衛に入った。)前二伝とここは同じ。

  伝 冬十二月、狄人伐衛。衛懿公好鶴、鶴有乗軒者。将戦、国人受甲者、皆曰、使鶴、鶴実有禄位。余焉能戦。……続く。

  → 伝の部分 (冬の十二月に狄の人が衛を討った。衛の懿公は鶴が好きで、鶴の中には軒(大夫の車)を贈られているものさえいた。それで、いざ狄軍と戦う時に、鎧を受けた国の兵隊たちは皆、「鶴を使えばいいさ、鶴は禄も位もあるじゃないか。なんで我々が戦う必要がある」と言った。)

 

これらを見て分かるとおり、明らかに左氏伝は別の話が加わっている。当時の衛の王様(懿公)は鶴が大好きでいっぱしの大臣扱いしていたのだ。この話は公羊伝、穀梁伝には見えない。

左氏伝は歴史を詳しく記しただけではなく、当時のうわさ話(男女の問題、趣味、占い等)も加わり、ある意味面白いのだが、儒教を学ぶ真面目な学生には奇異な話が多く取り入れられた感も否めず、そういう点からも中国の正当な春秋とは考えられなかったようだ。

個人的にはその奇異なところが面白いのだが…。私はその魅力について思いついたことをいろいろ書いていければなあと思う。

 

最後に、司馬遷、「史記」という歴史書を書いた有名な歴史家(と断言していいのか分からないが)の述懐について紹介する。

司馬遷史記を書くにあたって、彼なりに苦しい胸の内、大きな歴史編纂の事業をなすにあたって、自分の気持ちを綴っている。(報任少卿書より)

「古者富貴而名摩滅、不可勝記。唯倜当非常之人偁焉。蓋文王拘而演周易、仲尼厄而作春秋、屈原放逐乃賦離騒、左丘失明厥有国語、孫子臏脚兵法修列、不韋遷蜀世傳呂覧、韓非囚秦説難孤憤。詩三百篇、大抵聖賢発憤之所為作也。此人皆意有鬱結、不得通其道。故述往事、思来者。乃如左丘無目、孫子断足、終不可用、退而論書策以舒其憤思、垂空文以自見。」

(昔から富貴の人の名前が残らないことは挙げるいとまもないほどだ。ただ非常に優秀な者だけが名を残すことができる。例として、文王は囚人となり「周易」を作り、孔子は困難な日々を過ごす中で「春秋」を編纂した。屈原は国から追われて「離騒」という詩が遺された。左丘は失明して「国語」を表し、孫子は足を切られ「兵法」を編み出した。呂不韋は蜀の地へ流されたことで呂覧を作成し、韓非は秦の地で囚われ、「説難」「孤憤」を世に残した。「詩経」の三百あまりの歌は、聖賢の人の心中が発憤されたものだろう。この人たちは皆、正しいと思っていることが世の中に通らず、心の中に鬱積したものがあったのだ。それ故に過去の歴史を述べて将来の者に託したのだ。左丘は視力を、孫子は足を失い一生使い物にならなかっただろう。だから世の中の表から身を引き、書策を書くことでその鬱積した気持ちを表し、それ残すことで自らの気持ちを世の中に発表したのだ。)

私は10年以上前、司馬遷の墓に行ったが、大層立派なお墓で、小高い山のようになっていた。まだ工事中のところには、現在の中国の文人、有名人らしき人々の賞賛する石碑が、司馬遷の墓標に繋がる小道に延々と立てられていた。司馬遷の願いはかなったのだ。

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司馬遷墓入口

左氏伝の作者である左丘明のお墓はないようだが(もしあったら申し訳ない)、ある意味作品が墓標であろう。書物を残すということは単なる記録ではなく、当時、苦難に遭った人々にとっては政治批判、自分自身の心情の発表に繋がるものだったのだ。

自由に意見が発表できる現代には不要の文学かもしれないが、君主制の、一歩間違えれば命を失うような世界に生きた作家が描いた政治批判を伴う歴史書を紐解くということは、非常に興味深いことではないか。

 

※文中に表記できない繁体字簡体字は日本で通常使われている漢字を当てています。

※参考文献

 〈日本〉全釈漢文大系 春秋左氏伝 上・中・下 集英社

     春秋左氏伝 上・中・下 小倉芳彦訳 岩波文庫

     新釈漢文大系 史記十四 (列伝七) 明治書院司馬遷部分)

 〈台湾〉新譯 公羊傳 三民書局

     新譯 春秋穀梁傳 上・下 三民書局

 〈中国〉中国史学要籍叢刊 左傳 上・下 上海古籍出版社

※注意 私は専門家ではないので、春秋左氏伝一般に関する私の記述については参考になりません。調べ物をする場合は必ず文献に当たっていただきたい。ここに記すのはあくまでも私見である(笑) 

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参考文献