※4から始まるものは春秋左氏伝について書きます。
楚の伍挙の話です。
伍挙の父は伍参、孫は伍員(伍子胥)です。後に孫の伍子胥は呉の重臣となり、復讐のため楚を攻めることで有名な人です。
はっきりとした身分は分かりませんが、身分の高い家柄だったようで、伍挙の妻は楚の公子の娘だから、王族とも姻戚関係にあるくらいの身分だったのでしょう。
一時期、濡れ衣を着せられ、鄭へ逃亡していたこともあったけれど、親しい友人の口添えで楚に戻ることができた(襄公二五年)エピソードがあります。
伍挙は楚の公子囲の側近(官職名はその都度変わっています)でした。
公子囲はずる賢く、好戦的で、強欲な人でした。彼は王の座を虎視眈々と狙っており、兄が王となり、その子が王を継いだ時、その王座を狙います。
昭公元年 冬
伍挙は副使として公子囲と共に鄭へ向かった。途中で、楚王が病気と聞き、公子囲は国に帰り、伍挙だけは鄭へ向かった。
同年 十一月
公子囲は王宮に入ると、寝室で王の首を絞めて殺し、王の子供を殺した。
公子比、公子黒肱は逃亡し、伯州犂は公子囲の刺客に殺された。
そして即位して霊王となった。
鄭に残されていた伍挙は「公子囲」のことを鄭伯にどう表現すればいいのか困惑し、「共王の子、その中の年長の囲が…」と言い換えることにした。
昭公四年
霊王は覇王として諸国を束ねたいと考えるようになった。
覇王として認められるということは、戦に勝つだけではなく、小国を従え、大国とも上手に渡り合うことが大切で、諸国が集まる会合を主催(牛耳る)ことがその身分になった証でした。
当時、楚は各国との境界線に軍を繰り出し、当時の大国晋や斉とも渡り合えるくらいに成長していました。晋はいまいましく思いつつも、特段表立って争う姿勢を出さない状態でした。
そして霊王は伍挙を、晋へ向かわせ、楚が主催する会合に出席するよう伝えたのです。
当時の晋侯(平公)は不快に思って断りたかったが、家臣の助言により、仕方なく同意したのだった。
伍挙はその時に「霊王のために晋の公女を婚約のために迎えたい」と伝えると、それも晋侯は許した。
この公女を迎えるというのは、儀礼的なもので、お姫様(公女)を迎えるという場合は必ずお姫様一行の使節団を派遣しなければならず、晋は使節団を楚に行かせる義務が生じ、例え会合の出席が嫌でも、お姫様輿入れ使節団が来る時に会合が開催されれば、お姫様を送る側近は必ず重臣が付いてくるので、その重臣が出席せざるを得なくなるからでした。
今回はその会合での伍挙と霊王とエピソードをピックアップしてみました。
公羊伝、穀梁伝はすべて経のみ同じで、伝はありませんでした。
そのため、原文は左氏伝のみ記載します。
〇春秋左氏伝の記述(長い部分は略しました)
昭公四年 BC538
〈経〉
夏 楚子蔡侯陳侯鄭伯許男徐子滕子頓子胡子沈子小邾子宋世子佐淮夷、会于申。
〈伝〉
夏 諸侯如楚 魯衛曹邾不会 曹邾辞以難 公辞以時祭 衛侯辞以疾 鄭伯先待于申
六月丙午 楚子会諸侯于申 椒挙言于楚子曰 臣聞諸侯無帰 礼以為帰 今君始得諸侯 其慎礼矣 覇之済否 在此会也 夏啓鈞台之享 商湯有景亳之命…略…君其何用 宋向戌鄭公孫僑在 諸侯之良也 君其選焉 王曰 吾用斉桓
王使問礼于左師与子産 左師曰 小国習之 大国用之 敢不薦聞…略…君子謂 合左師善守先代 子産善相小国 王使椒挙待于後 以規過 卒事 不規 王問其故 対曰 礼吾所未見者有六焉 又何以規
宋大子佐後至 王田于武城 久而弗見 椒挙請辞焉…略…故執諸申
楚子示諸侯侈 椒挙曰 夫六王 二公之事 皆所以示諸侯礼也 諸侯所由用命也 夏桀為仍之会 有緡叛之 商紂為黎之蒐 東夷叛之 周幽為大室之盟 戎狄 無乃不済乎 王弗聴 子産見左師曰 吾不患楚矣 汰而愎諫…略…善亦如之 徳遠而後興
〇内容について
楚の霊王は申で会合を開くために各諸侯を呼んだ。そのうち、魯、衛、宋、邾は出席しなかった。その理由は、曹と邾は国難、魯は祭、衛は病気だった。鄭伯は早くから申に到着して待っていた。
六月の丙午の日、霊王は会同を開催した。その時、伍挙(椒挙)は王に言った。
「私は『諸侯には帰属するものはなく、ただ唯一礼のみに帰属する』と聞いています。今回は初めて楚が主催をした会同です。参加した諸侯たちを私たちに帰属させるためには、礼儀が重要です。過去、夏の時代には禹王が鈞台で行われ、殷の時代には湯王が景亳で命令を出し、周では武王が孟津の誓いをし、成王の時には岐陽で、康王の時には鄷宮で、斉の桓公の時は召陵で軍の会同があり、晋の文公の時は踐土の盟がありました。主君におかれては、どの会同を参考にされますか。今、宋から向戌、鄭の公孫僑が参上しておりますが、お二人は諸侯の臣下の中でも立派な人物。彼らに会同の礼についてお尋ねするとよろしいと思いますが」
伍挙の言葉に、霊王は「私は斉の桓公の前例を参考にしたい」と答えた。
霊王の意向で宋の向戌と鄭の子産(公孫僑)に会同の礼について尋ねると、向戌は
「宋のような小国で知っていることを、大国の楚からお尋ねになるということは大変うれしいこと、ぜひとも私が知っていることはお話しいたしましょう」
と答え、諸侯の礼について6通りの方法を説明した。
また、子産は
「鄭のような小国は職務を守ることが一番重要です。私たち鄭で今まで守られてきた礼について知っていることをお話いたしましょう」
と答え、伯爵、男爵、子爵にあたる諸侯の礼儀作法について述べた。
君子が思うに、向戌は宋に伝わる先代からの礼法を受け継ぎ、それを守っている。そして子産は小国の相としてふさわしい行いをしている。
さて、楚の霊王は会同中、背後に伍挙を侍らせて、その礼儀について間違ったことがあれば、それを正してもらおうとした。しかし、会同が終わるまで、伍挙は注意しなかった。霊王が「なぜ注意しないのか」と問うと、伍挙は
「礼儀作法に私が未だ知らなかったことが6通りあるのです。そんな私がどうして正すことができましょうか」
と答えた。
宋の太子の佐が会同に遅れてきた。霊王は狩猟の遊びに出ていて会わなかった。伍挙は諸侯の太子に無礼だと思い、楚王にあいさつするように言うと、霊王は伍挙に代わりに挨拶をしてくれと頼んだ。また徐の君を楚王は疑って申にとどめておいた。
会同の間、霊王は諸侯に対して無礼な態度をとっていた。見るに見かねた伍挙は、霊王に言った。
「前に話した六王と二公の話は、主君がこの会同で集まってきた諸侯に対して礼を示すために、例として挙げたものです。彼らは立派な歴史残る名君たちであり、彼らの例を参考にすることで主君には有益だと判断したのです。しかし、別の例もあります。夏の時代、桀王は仍の会同で緡に背かれ、商の時代、紂王は黎で軍を集めたところ、東夷がこれに反して軍を出し、周の時代では幽帝が大室の同盟をすると戎狄が反乱を起こしました。なぜこのようなことが起こったかと言いますと、すべて当時の王が諸侯におごり高ぶったからです。おごった態度というのは諸侯がその王の命令を反故する理由となります。今、主君はまさにおごった態度です。このままではこの悪い過去の例と同じようになってしまうでしょう」
この伍挙の言葉は霊王には響かなかった。
そんな霊王の態度を見た子産は、向戌に「私は楚を心配しないよ。驕って、臣下の諫めにも耳を貸さない。10年持つかね」と言った。向戌は「そうですね。10年ほど驕らないと、その悪事は広まりませんから。さんざん悪事を働いてもらえば、そのうち棄てられますよ。善も同じ、ずっと善を行えば、自然と繁栄するものですから」と言った。
〇補足
公子囲、のちの霊王は、この会同ののち9年後に逃亡していた公子比達反乱軍によって殺される。そして子供も殺される。彼は家臣の屋敷で死んでしまった。公子比ものちに殺され、末子の公子棄疾が平王となる。その平王のもとにいたのが伍奢(伍挙の子)、彼は太子の教育係となっていた。平王の邪な考えから、伍奢は殺され、次男坊だった伍員(伍子胥)は楚を出奔し、呉へ行き、闔閭のもと、覇権を広げるのである。
宋の向戌、鄭の子産は左伝の中でも知識人、礼を知る人として描かれ、よく先を見通すようなセリフを言う。この申の会同でも同じようなキャラクターとして描かれている。
伍挙は、霊王に「礼の間違いがあったら指摘せよ」と言われたのに、しなかったのは「礼について知らなかったことが6つもあったのに、どうして注意なんてできますか」と受け答えしているが、この言葉を正直にとるかは、左伝の流れの前後を考えると少し皮肉にも取れる。
向戌が6通りの礼を教授したのを聞いて、伍挙は「6通りもやり方があったのか」とびっくりしたのは事実だろうが、霊王の傍若無人な態度をみるにつけ、「どうせ注意しても聞かないだろ」と思っていた節はある。礼を守る人なら、注意するだろうが、守らない人なのだ。実際例として、宋の太子にあいさつをしないままだった。伍挙は非礼になると指摘したのに…である。
会同後、霊王は朱方という地域を攻め、そこにいた慶封を捉えた。(慶封については以前別の機会に話を書いたが)斉で問題を起こし、朱方で生活していた慶封を霊王は処罰しようとした。しかし伍挙は止める。簡単に言えば、「王位を簒奪した霊王に人を罰する権利はない」ということだった。しかし霊王は伍挙の言葉を無視し、「王の権限があるので」慶封を罰した。当然慶封は反発する。「あんたなんか、兄弟を殺して王様になったんだろ」と叫んだのだった。霊王は激怒し、慶封を殺している。
霊王が反乱軍に攻められ、逃亡する際に伍挙の名前が出てこない。とうに霊王のそばから離れていたのかもしれない。反乱軍に公子棄疾(のちの平王)がいるので、もしかしたら、そちらについていたのかもしれない。いずれにせよ、彼は安全なところにいたのだろう。
〇感想
暴君や暗君に仕える良臣は大変だ。ひどい時には死罪になり、よくてもとばっちりを食らう。一緒になって悪いことをしている家臣の方がまだましなのではないかと思ったりもする。
このころの楚は強くなり始め、今まで大きい顔をしていた晋や斉を押しのけ、新参者ながら、その広大な領地から得る莫大な利益をほしいまま手にして春秋後期に覇権を広げる。その際の王というのは賢いというよりも豪胆で狂暴だ。霊王はその一人に過ぎない。長い歴史のある小国、魯や鄭、宋なのが大国に挟まれながら、いかに上手にこの流れに沿って生きていくかうかがうのとは対照的である。そんな中、伍挙は知らないものは知らないと言い、暴君の命令には素直に従うものの、大切なところは譲らないと筋の通った気持ちのいい人だと思う。
のちに孫の伍子胥が、そのまっすぐな性格から、闔閭の後を継いだ夫差の横暴を止めようと、嫌われても諫言をし、そのため命を失ったのは、そういう血筋なのかと思わせられる。
本文のくだりに、「君子は」という文言が出てくるところが左氏伝らしい。この君子は誰かははっきりしないが、この場合は作者だと思われる。
「君子」が、子産や向戌をほめたのは、礼をわきまえているというところを称賛したかったのだろう。礼に始まり礼に終わるとはよく聞く言葉だが、それほど礼(規範)は重視されていた。しかし礼より大切なのは、驕らないことだと伍挙は言っている。驕ると礼が失われる上に、下の者が付いてこなくなるからだ。
実際、今の社会でも、ある一定の礼儀を知らなければ、人はついてこないし、馬鹿にされる。昔も今も変わらない。驕る人にはついていく人もいない。
しかし、向戌が善を10年すればいいことがあるようなことを話していたけれど、私はそれが信じられない…。悪は簡単に滅びるけれど、善が報われることってあるのでしょうか?

荊州博物館にあった玉璧
※文中に表記できない繁体字、簡体字は日本で通常使われている漢字を当てています。
※参考文献
〈日本〉全釈漢文大系 春秋左氏伝 上・中・下 集英社
春秋左氏伝 上・中・下 小倉芳彦訳 岩波文庫
〈中国〉中国史学要籍叢刊 左傳 上・下 上海古籍出版社
〈台湾〉新譯 公羊伝 三民書局
新譯 春秋穀梁伝 三民書局
※最後に、ここに記すのはあくまでも私見である。