空のなごり

経験、思ったこと、共感できることなど書いてみました。

4.3 春秋左氏伝 貴公子(呉の季札の場合)

※4から始まるものは春秋左氏伝について書きます。

 

季札(きさつ)は呉の公子である。季は末子の意味、札は名。呉という蛮地に生まれながら、その知識の高さと礼節を重んじる人柄で諸侯から尊敬を集めた人である。

呉は現在の蘇州付近にあった国家で、その祖は太伯と言い、周王朝の祖である文王の伯父である。文王の父親である季歴が優秀であったため、本来嫡男であり跡継ぎである太伯は弟の季歴に跡継ぎの身分を譲るため、自ら国を去り、南の蛮地である呉へ去った。

それから数百年後、呉は長江南方の国として強大な力を持ち、王国へと変化していった。

その時の国王が寿夢(じゅぼう)である。

寿夢の正妻に4人の子があり、長男を諸樊(しょはん)、次男を余祭(よさい)、三男を余昧(よまい)、そして四男が季札(きさつ)である。

 

〇春秋左氏伝より

BC561、襄公12年

秋、呉の寿夢が亡くなる

BC559、襄公14年

  跡を継いだ諸樊は、寿夢の喪が明けると、すぐに季札を国王に立てようとしたが、季札は辞退した。それでも無理やり国王にしようとしたが、季札は家財を捨て、田舎に逃げ、そこで農業を始めたので、諸樊は諦め、そのまま王として執務を行った。

BC548、襄公25年

  呉王の諸樊は楚に侵攻し、戦で矢に打たれて亡くなった。

BC544、襄公29年

  諸樊の亡き後、跡を継いだ余祭のために季札は諸国を巡り、その即位の報告を使者として行った。

  その際、季札はさまざまな国を訪れ、重要な人物に助言や忠告を行っている。

  魯では、叔孫穆子に将来の災難を予言、また魯の宮廷で古の音楽などを楽しみ、感想を述べている。

  斉では晏嬰(晏子のこと)と会い、彼の将来を心配し助言をしている。(おかげで晏嬰は助かっている)

  鄭では子産に会い、その将来のアドバイスをしている。(子産はのちに鄭で執政となりその慎重で堅実な政治と外交で鄭を盛り立てる)

  衛では有能な家臣を褒め、衛の安定を予想する。

  晋へ行く途中で、謹慎する身の孫文子が音楽を楽しんでいるのを見て批判する。(孫文子は季札の批判を耳にし、反省して二度と音楽を聴かなかった)

  そして晋に到着すると、趙文子、韓宣子、魏献子と気が合い、晋の将来の予言をする(のちに晋はこの三人の子孫に分割され、趙、韓、魏の三国となる)。重臣である叔向 に難を逃れるよう助言している。

BC542、襄公31年

  趙文子が呉王の夷末(いばつ…余昧のこと)の使節である屈狐庸(くつこよう)に「季札は将来呉の国君になるだろうか」と尋ねると、屈狐庸は否定し、夷末の子孫が国君になるだろうという。(実際そのとおりとなる)

BC515、昭公27年

季札は呉王僚(りょう…寿夢の庶子の長、季札とは異母兄)の命令で諸国へ使者として向かう。

その途中で公子光(余昧の長子)が王僚を殺し、呉王闔閭となる。

季札が後に呉へ帰ってくると、(本来季札に王座が渡されるはずなのに)闔閭が呉王となっていたが、季札は闔閭に「国の社稷が守られ、国の形を保つことができるのなら、私は誰が王になってもかまわない」と述べた。

BC496、定公14年

  呉と越が戦い、その中で闔閭が亡くなる。子の夫差が呉王となる。

  夫差が王となった後、戦が続く。

BC484、哀公10年

  夫差の命令で季札は陳へ援軍に向かう。陳は楚に攻められて苦境に立たされていた。季札は楚の将軍子期と会い、こう提案する。

「お互いの国の王は、徳に努めず、諸侯を奪い合っているだけだ。民には何の罪もない。お互い戦をせずに引き上げませんか。私が先に引き上げれば、あなたも面目が立ちましょう」

  子期はこの提案を受け入れ、季札が陳を去ると、軍を退いた。

BC473、哀公22年

  夫差越に敗れ、呉滅亡する。

 

〇公羊伝、呉越春秋より考察

他書における呉の王位の経緯や季札の人柄の描写を見てみたい。

寿夢の時、呉は中原から離れていることもあって、蛮地で遅れた地域であった。そのために、寿夢は礼儀作法、知識等を学び、国の勃興を促した。その中で末子だった季札が一番有望だったのだろう。寿夢は呉の将来を考え、季札が王になればもっと発展すると考えた。

正妻の4人の子は皆仲が良く、父の願いを聞いた、季札以外の兄弟、諸樊、余祭、余昧は父亡き後、季札に王位を譲ろうとしたのだが、季札はこれを固辞。季札は数年前に起こった曹の国での跡継ぎ問題を理由に、兄弟の順を越えて末子である自分が王位にはつけないと言ったのである。そこで、諸樊は仕方なく自分が継ぐことで、諸樊(長男)→余祭(次男)→余昧(三男)→季札(四男)と王位を継承できればいいと考えた。

 結局、余昧亡きあと、庶子の長である僚が継ぎ(呉越春秋では余昧の子が僚となっている)、季札は王位を継承せず、僚が王になったことを不満に思っていた公子光(呉越春秋では諸樊の子)は、季札が諸国歴訪中で不在の間に王僚を暗殺し、呉王闔閭となった。闔閭は歴訪から帰ってきた季札に王位についてどう思うか尋ね、季札は、自分は王位を継承しないと言い、闔閭の王位奪取を祝福している。

 

 公羊伝には、闔閭に対する季札の言葉が、左氏伝、呉越春秋とは異なっていて面白い。

公羊伝 襄公二十有九年

「爾弑吾君、吾受爾国、是吾與爾為算也。爾殺吾兄、吾又殺爾、是父子兄弟相殺終身無巳也。」

 (あなたは私の国君を殺したのに、その国君の座を私が受け取れば、私とあなたが計画して国君を殺したことになります。また、あなたは私の異母兄を殺したのですから、私が復讐してあなたを殺せば、家族の骨肉の争いがずっと続くということになってしまいます)

このように具体的な理由で季札は断っている。呉越春秋と左氏伝では季札は国が保てることが最上であり、私は誰がなっても構わないという平和主義的な思想であった。

左氏伝とは違う季札の言動だが、加えて言えば、公羊伝では、季札を賢人だと大変賞賛している。その理由はいかにも儒教思想らしい。公羊伝に

「何賢乎季子? 譲国也。」

と記載されている。兄弟の序列を大切にし、国君にならず、下野したからである。また、さらに、前述の季札の言葉の後、季札は闔閭の治める呉の宮中には行かず、自分の領地である延州へと戻った後、こう記述されている。

「故君子以其不受為義、以其不殺為仁。賢季子則呉何以有大夫?以季子為臣、則宜有君者也。」

(〈季札の行為を見て〉君子は季札が王位を受けなかったのは義であり、闔閭を殺さなかったのは仁だと認めた。賢人季札はどうして闔閭や呉の体制を認めたのだろうか。季札が家臣でいること、それがすなわち呉の君主が認めたということになる)

なお、呉越春秋、公羊伝では、季札の話は、闔閭が王僚を暗殺して君主になった時で終了している。それ以降に記述はない。

 

〇左氏伝での季札の描写

季札は父の望みを断り、最後まで君主にならず、延州で静かな生活をしていたようだ。

彼の左氏伝特有な行動は、BC544、襄公29年(前述)で顕著に記されている。諸国歴訪して各国の重臣にアドバイスをしたり、音楽を聴いて曲の由来を当てたりと才知ある人格をあますところなく発揮している。

この季札の存在は、各国の現在の状況、将来にわたる災難を予知し、それにどう対処すべきかアドバイスする聖人的な位置づけになっている。実際そのような発言があったのか不明だが、彼が当時、中原の国々の(現代風な表現だと)意識の高い人々からすれば憧れの有名人であったことは窺い知れる。

呉は本来最南方の周王朝ゆかりの国であり、完全な蛮地ではないものの、存在は薄く、相手にされていなかったようだ。しかし寿夢が王のころから、楚や越を相手に動き始め、だんだんと勢力を拡大する。季札が褒められているが、本来、寿夢が立派な王だったのではないかと私は思う。そういう父親だから、息子たちに高い教育を施し、頭角を現したのが季札だったのだろう。

 

父寿夢は、自分の祖先の太伯が行ったように、有能な子孫に王位を継がせるため、兄弟は協力すべきであり、そうすることで国の繁栄を望めると思ったはずだ。

しかし季札はそれを拒んでいる。彼は父の考えは分かっていただろうと思うのだが、兄弟の序列、嫡男が継ぐということにこだわった。公羊伝ではそれは「賢人」だと褒めているが、左氏伝では様相が違う。褒めていないようだ。季札の頭脳の高さ、人物の良さは認めているものの、王位継承を断ったことだけを以て「すごい」とは言っていない。

BC542、襄公31年(前述)の経緯で、晋の趙文子が「呉の諸樊と余祭が早く亡くなったのは天が季札に国王になるよう望んでいるのでは」と尋ねた際の、呉の臣屈狐庸の予言めいた言葉

「不立。是二王之命也。非啓季子也。若天所啓其在今嗣君乎。甚徳而度。徳不失民、度不失事。民親而事有序。其天所啓也。有呉国者、必此君之子孫実終之。季子守節者也。難有国不立。」

(季子【季札の敬称】は国王にはならないです。諸樊と余祭が亡くなったのは天命で、季子のためではないのです。もし天の恵みがあるといえば、今の余昧です。とても徳があり節度を守っています。民も信頼を寄せ、政事も失敗がありません。民が慕い物事の順序を守る人、それが天の恵みを受ける人でしょう。呉の君主にはこの余昧の子孫が最後まで君臨するのではないでしょうか。季子は節度を守る方、決して国王にはなりませんよ)

大国晋の重臣趙文子が呉の将来を不安視しているため(季札が王となって呉が実力をつけると困るという意味で)、わざとこのような発言をし、また同時に現在の君主余昧を持ち上げる…という発言をしたとも捉えられないが…左氏伝の場合はこの言葉が予言のような意味となるのでストレートに受け取っていい内容だと思われる。

要するに季札は王位は絶対継承しない、それは天命であるから…という意味なのであろう。

左氏伝は天の意を王位や運命の理由付けに使っている。それは実力で王位を奪うなど人為的な王位継承ではなく天意に基づく王位継承が最上だと考えている所以ではないだろうか。

 

〇季札の王位拒絶に関して考えること

呉は闔閭の後、伍子胥孫武等、当時としたら頭脳トップレベルの軍師が呉で活躍し、大国楚を追い立て、越を蹴散らし、その後夫差の時代となっても、他国へ攻め入り、当時の最強の国へと変化していく。

その後、夫差の傲慢な態度から、越がそれに乗じて復讐を計り、孫武は斉へ行き、伍子胥は自殺を命じられ、最終的に夫差は越との戦争に敗れて呉は滅亡してしまう。

伍子胥が自殺を命じられる前年、季札は、BC484、哀公10年(前述)に陳へ援軍に行き、楚と交渉して戦をしないまま呉へ帰っている。

季札はこの時80歳前後(参考文献には90歳前後では?とある)だったのではないだろうか。彼は楚の子期に対して、

「二君不務徳、而力争諸侯。民何罪焉。我請退以為子名。務徳而安民。」

(呉も楚も国君が徳に務めず、軍事力で諸侯と争うばかりだ。(軍役に苦しむ)民には何の罪がありましょう。私が先に退いてあなたの名誉を守ります(互いに軍を退いて戦争を止めましょう)。徳に務めて民を安心させて下さい)

季札は夫差の横暴には辟易し、呉の衰退を予測していたのだろう。彼は明晰な頭脳がありながら国を救ったりしなかったのか。逆に伍子胥は夫差を厳しく諫めて最終的に自殺を命じられるまでになっている。

左氏伝では、王位奪還の血生臭い争いも、国の衰退にも、季札は平然とし、どこか超然として予言者のような風貌を見せる。この春秋時代全般的に、王位継承に基づく様々な血で血を洗うようなひどい事件が続くが、季札はそういうものを嫌ったのだろうか。ただ、そんな世界で名声を思うままにし、決して争いに加わらず、身分が高いのに身の危険を一度も感じられない生き方ができた唯一の人物であろう。

 

最後に、呉越春秋から、余昧が亡くなり、とうとう順番で季札が王位を受けねばならなくなった際、季札が言った言葉がある。

「吾不受位、明矣。昔前君有命、巳附子臧之義、潔身清行、仰高履尚、惟仁是処、富貴之於我、如秋風之過耳。」

(私が国王の位を受けないのははっきりしている。以前、父寿夢が私へ王位を渡そうとした際にも話したように、曹の子臧のように私も義理を守りたい。そして身を潔くし、清廉な日々を送り、高い人格を望むように生き、ただ仁を全うするようなところに身を置くことが私にとっては一番なのです。富貴などは、私にとって耳にそよぐ秋風のようなものです)

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中国 泰山

蘇州には何度も旅行に行ったのに写真データが見つからず…代わりに泰山の写真をアップします。

※文中に表記できない繁体字簡体字は日本で通常使われている漢字を当てています。

※参考文献

 〈日本〉全釈漢文大系 春秋左氏伝 上・中・下 竹内照夫 集英社

     春秋左氏伝 上・中・下 小倉芳彦訳 岩波文庫

 〈台湾〉呉越春秋        趙曄著 張覚訳注 臺灣古籍出版社

     公羊伝        三民書局

     新譯 越絶書     三民書局

 〈中国〉中国史学要籍叢刊 左傳 上・下 上海古籍出版社

※最後に、ここに記すのはあくまでも私見である。

3.2 湖の風景(海外旅行)

※3から始まるものは趣味(旅行など)について書きます。

 

山と湖のある風景がとても好きになったのは、カナダ旅行で見たモレイン湖からでした。

今では私の好きな風景1番となっています。

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Canada Moraine Lake

氷河湖はエメラルド色の水を湛えて、緑色の山との対照が本当に美しい。

あまりにも気に入ったので、二度訪れていて、二度目にはモレイン湖そばにあるモレインレイクロッジという高級ロッジに宿泊しました。夜も素敵な湖を見れるなんて本当に幸せだと実感しながら…結局ブランデー入りアレンジコーヒーを普通のコーヒーと勘違いして注文し、ボロボロになって撃沈して眠ってしまいましたが。

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別の日のモレイン湖

今では世界の美しい風景で載るような場所になってしまい、観光客も多くて、落ち着いて湖と対話するような時間がもてなくなってしまったのは残念。でもまた行きたい!

 

カナダ旅行の途中で、現地でワーホリしている日本人と知り合い、その人の勧めでいろんな湖も訪れてみました。レンタカーを運転しての旅行だったので自由がききました。

ツアーで訪れる場所に入っていない湖はなかなかよかったです。

トレッキングツアーもあり、私は秘境と言われるレイクオハラのハイクに参加しました。なんと案内人は日本人女性。日本語だと安心してトレッキングにも参加できました。

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Canada Lake O’Hara

 

ニュージーランド旅行も氷河湖のファンになりました。

南島をクイーンズタウンからマウントクックへ向かう途中にワナカ湖を通りましたが、ここがまた綺麗。

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NZ Lake Wanaka

本当は旅行日程に時間があれば有名なテカポ湖行きたかったんですけれど。いつか行けたらいいな。

ニュージーランドは高速道路と市街地の境目が分かりづらいので、車の速度オーバーには注意しないといけなかったです。実際パトカーに追いかけられました(涙)

 

イギリスの湖水地方にも行きましたが…なぜか大雨でろくな写真が撮れず。ですが、ピーターラビットの庭はとてもかわいくて素敵でした。

 

クロアチアのプリトビチェ国立公園はこれも綺麗でした。でも、大きすぎて途中よく分からなくなりましたね。歩きごたえあります。ザグレブからバスが出ていたので、それに乗って行きました。一日あればじっくり散策できます。結構観光客がいて、自分の速度で歩くことができなかった…のが残念でした。

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Croatia Plitvicka Jezera

 

最後にトルコのパムッカレ。これは…最高の思い出でした。美しいというよりは、トルコ人が楽しすぎて…いい思い出です。

アンカラからパムッカレまで深夜バスで行き、早朝4時にパムッカレのバスターミナルへ。バスが出発する6時までの間、バスターミナルのスタッフとおしゃべり。トルコの人はお話し好きで楽しいです。パムッカレは10時くらいから3時くらいまでうろうろしました。頂上にはローマ遺跡があって、温泉プールもあります。私は水着持っていなかったので入らなかったのですが、持っていたらもっと楽しめたのにとくやしい思いをしました。

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Turkey Pamukkale

現地の人が言うには、パムッカレに前泊して、早朝朝日を反射して赤く染まるパムッカレが最高だよということでした。ああ、また行けたらいいな…。

1.12 薬膳を学んで

乳がんの原因は、結局人それぞれの体質や生活習慣によって違うのではないかと思うようになりました。

そして自分が再発しないためには体質にあった食生活やストレスを軽減した生活をすることが必要だと思うようになりました。

体質にあった食生活というのをどうするかと考えた時、一番分かりやすい指標が「薬膳」でした。食事というのはいろんなものがあり、何がどう私の体に合っているのか分からなかったからです。そういう意味で、体質に応じてどんな食材が私に合うのか分かるものは「薬膳」でした。

私は早速薬膳の授業に参加することにして、専門の知識を持った中国の先生から師事を受けることにしました。

 

薬膳とは、「ある目的に合わせて食材を選び、調理方法を選ぶ食べ方」です。

 よく使われる言葉に

 「治未病」…日常の食事で疾病を予防する。

 「弁証施治」…弁証して疾病の治療のための食事を考える。

 「因証用膳」…症状によって食べるものを選ぶ。

 「因時而異」…時期によって選ぶものが異なる。

 「因人用膳」…人によって食べ物の選び方がある。

 「因地而異」…住む場所によって選ぶ食べ物も異なる。

があります。私にとって大切なのは「治未病」でした。今後の病気の予防をしたいのです。

薬膳の基本概念は「陰陽五行」です。易経など、中国の古代の自然思想からきています。世界全体が調和を保っているというのが分かりやすい言い方になるのでしょうか。つまり、身体も調和が必要で、その調和が崩れたら病が出てくるということ。その調和を保つために食材で毎日補ったり排除したりしなければなりません。

 

ただ、薬膳の詳しい説明は割愛します。

 ※興味のある方は、専門書や教室に通われることをお勧めします。(ネットでもありますが、薬膳の本当の利用法は自分にオーダーメイドのものです。他人が利用している薬膳の調理法が自分に合うとは限りませんから)

 

1年かけて学びました。まだまだ初心者レベルですが、とても勉強になりました。

結局、学んでいく過程で、私の体質は「瘀血」「気滞」ではないかと気づきました。

体温も低かったし、貧血っぽいし、頭痛持ちだし…ぴったりと当てはまりました。

そこで、薬膳のやり方を踏襲して、毎日の料理を変えたところ…いろいろといいことがありましたが、一部悪いこともありました。

いいことは体質改善と、今まで悩んでいた体の問題を解決できたこと。悪いことは肥ったことです。痩せる食材は結構体を冷やすので、薬膳学習中はあまり食べなかったということもあります。

 

私によかったことを書きます。

1.基礎体温が上がったこと。

  温性食材(例えば、エビ、芋類、羊肉等)を選び、生もの少なくして火を通した温かいものを食べるとだんだんと上がっていきました。35度→36.5度へ

2.以前と比べていろんな食材を使うようになった。

  効能が分かると、興味のなかった食材も手に取って買うようになりました。それから香辛料やハーブは沢山買うように。味付けは塩コショウだけではなくなりました。

3.辛いものは私には合わないことが分かった。

  キムチチゲなどの海外料理の辛いものが大好きでしたが、それはお腹を壊すので、私は控えるようになりました。

4.頭痛の対処

  頭痛持ちでしたが、香味野菜などを食べると「気」が巡り、ひどい頭痛にはならなくなりました。今は頭痛になるのも年に数回。以前は週一ありました。

5.不正出血の対処

  ガン治療後、なぜか生理が止まらなくなり、ずっと経血が出ていたので、怖くなり、検査したのですが、異常はありませんでした。結局ホルモンバランスだろうと婦人科で言われたのですが、薬はなく…。

  薬膳、というか、漢方で、不正出血で処方される方剤は「芎帰膠艾湯」という有名なものがあるのですが、これを漢方薬局で処方してもらってもダメ…最終的に自分で調合し、ヨモギ(艾葉)、黄耆、大棗を煮詰め、飲んだところ、3日後から止血されました。その後、不正出血があるたびにこれで飲むと止まり、現在はまったくなくなりました。これも、薬膳で、生薬の勉強をしたからできたことだと思います。

 ※この調合は私のためですので、絶対真似はしないでください。ただ、ヨモギ(艾葉)は止血作用が強く、また日本古来の和漢方ですので、日常使いハーブとして利用するのはとてもいいと思います。

 

食事療法についてはいろんな方法がありますが、自分に合ったものを探すのは難しいです…。病気になってから「これが一番いい食事療法」というのをずっと探していますが、薬膳はとても勉強になり、自分にとってはとてもよかったと思っています。教室での私以外の生徒はすべて薬剤師さんでした(笑)

4.2 春秋左氏伝 傾国の美女(息嬀の場合)

※4から始まるものは春秋左氏伝について書きます。

 

中国の歴史上登場する美女というのは極端な人が多い。特に傾国の美女と言われる女性は皇帝の私生活や政治を乱れさせ、国を衰退に追いやってしまうことが多い。その中でもこの息嬀(そくぎ)は珍しくつつましい女性である。

ちなみに息嬀というのは「息」の国に嫁いだ嬀姓の国(陳国)のお姫様という意味である。

 

左氏伝における彼女の話を紹介。

紀元前684年

息嬀は、陳国から息国へ嫁ぐことになった。

息国へ行く途中で彼女は蔡国に寄ることになってしまう。蔡国の王である哀候は彼女の姉が自分の妻であることを理由に寄らせたのだ。多分、哀候は息嬀が美女であること知っていたのだろう。

息嬀は断ることができず、嫁入り前に姉のいる国へ行き泊まることにした。しかしそこで哀候が息嬀に無礼を働いた。

息嬀は息国に到着した後、夫となる息候に蔡国の哀候の無礼を言ったところ、息候は怒り、楚国の文王に蔡国を討つ話を持ち掛ける。

「私の国に楚の軍を向かわせて下さい。私は蔡国に援軍を乞います。そしたら楚の軍で蔡を討って下さい」

そこで、その年の9月、楚軍は蔡に攻め入り、蔡国の哀候献舞を生け捕り、楚へ連れて帰ったのだった。息候の思惑通り事は運んだのである。

紀元前680年

楚に囚われの身となっていた哀候は、息候を陥れようと楚の文王に「息候の夫人は美人ですよ」と話し、文王の興味をそそらせた。息嬀が気になった文王は息に行って宴会を催し、それに参加した息候をその場で殺した。そして宮中から息嬀を無理やり連れ帰った。とうとう息国は滅んだのである。

息嬀は楚の文王の妻となり、堵敖(とごう)、熊惲(ゆううん、のちの成王)の二人の子を産んだ。文王は息嬀が楽しそうにしていない上、ろくに口も聞かないので、気になって息嬀に尋ねた「子供が二人も生まれたというのに、どうして冷たい態度なのか」すると息嬀は答えた。

「私は、一人の女性で二人の夫に仕えるような身となってしまいました。たとえ死ぬことはできなくても、口をきくなんてことができましょうか」

文王は彼女の言葉を聞いて、蔡の哀候が自分をそそのかして息国を滅ぼさせたことに気づき、息の仇として蔡を7月に攻めた。

紀元前675年

楚の文王死去。息嬀の息子である堵敖が後を継ぐが、揉めて、最終的に熊惲が成王となる。

紀元前666年

文王の弟の子元は未亡人となった息嬀のことが気になり、彼女のいる宮殿の隣に屋敷を作り、大きな音で音楽を流して舞を舞っていた。子元は息嬀に注目されたかったのだが、息嬀の侍女から「文夫人(息嬀のこと)は『子元様が舞っていた舞は文王様が戦の準備のために舞っていたものです。子元様は仇敵に対して舞を舞うのではなく、私に対して舞うなんて、どういうおつもりでしょう』と泣いておられます」と聞き、子元ははっとして「女性にそんなことを言われるなんて」と叫び、敵である鄭を秋に攻めに行った。しかし鄭の人の機転で、戦とはならず、引き返したのであった。

紀元前664年

子元は、息嬀のいる宮中に入り込み、王のような態度で暮らしていた。まだ成王が幼い時であり、政治が不安定になっていた。闘射師が子元を諫めたが、逆に子元に捕らえられてしまった。秋、内乱が起き、令尹であった子元が殺され、代わりに子文が令尹となった。

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華清池の蓮 傾国の美女繋がりで楊貴妃ゆかりの温泉地から

 

息嬀の話はここで終わる。彼女は権力者のせいで被害にあった可哀そうな女性という感じである。当時は女性は反抗できず、権力者の言うことは絶対で断ることはできなかったのだ。話の発端は哀候が彼女に無礼を働いたことから始まる。この「無礼」とは何だろう。左伝の原文では「止而見之弗賓」、つまり「留めて息嬀を見て賓客の扱いをせず」というのが直訳である。

てっきり、いやらしいことでもしたのかと思ったのだが、賓客の扱いをしなかったということから推察するに、単に顔を見たのではないかと思われる。昔の女性は夫となる人にしか本名や顔を見せないという風習があったと聞いているので、嫁入り前なのに、他の男性に顔をみられたのではないだろうか。それで哀候は彼女が美人だと確信できたのだろう。彼女も夫以外に顔を見られ、情けなく恥ずかしい思いをしたので、息候に「蔡候から無礼なことをされました」と伝えたのだと思う。

 

息の国については、この息嬀の問題が始まる前に面白い表現がある。これが左氏伝らしいところだ。

紀元前712年の内容に、鄭国と息国が言葉の行き違いがあり、息が鄭を討った。結局息が大敗した。君子はこのことから、息国がやがて亡びることを知り、こう言った。

不度徳不量力不親親不徴辞不察有罪犯五不イ(表記なし)而以伐人其喪師也不亦宜乎

【意味】徳を測らず、力を量らず、同姓を親しまず、約束を詳しく調べず、有罪を察せず、この五つの不善を犯した上に戦をする、その軍を失うのも当然ではないか。

君子とは、春秋であるから孔子のことであろう。だが私は、これは孔子の名を借りた左丘明の予見、宿命感を説明ではないだろうかと思う。

私が春秋を読んだ感想で思うに、当時の国力の差については

   楚>>>鄭>陳、蔡>>>息

であり、息は身の程もわきまえず、大国楚を利用して格上の蔡を攻めさせ、その王を楚の囚われの身にさせたのだ。しかも過去にも、同族(姫姓)の鄭に対して約束を無視して戦をしている有様だ。そんなことを平気でする息候だから、息嬀の美貌をきっかけに滅亡する運命になってしまったのである。

 

蔡については、今回の息嬀の話の中で楚に攻められた際(紀元前680年)、君子のコメントがある。

君子曰、商書所謂悪之易也、如火之燎于原、不可郷邇、其猶可撲滅者、其如蔡哀候乎。

【意味】君子が言うには、「書経に言うところの、『悪がはびこるのは火が野原に広がるようだ。向かって近づくことはできないのに完全に火を消すことができようか』とは、まさに蔡の哀候のことだ。

君子のセリフは書経の盤庚上に出ているもので、王である盤庚が殷の民に注意する言葉から出てくる。悪いことは簡単に流行するので、最初に消すべき。広がってしまったら取り返しがつかない。ということ。蔡の哀候は陳から嫁いできた女性(息嬀)に軽い気持ちでちょっかいを出しただけだっただろう。だが、それは息国や一人の女性を馬鹿にした行為であり、それが引いては自分の身に降りかかってしまったのだ。悪いことはしてはならないという忠告なのだろう。最終的に哀候は囚われの身のまま楚で亡くなってしまう。

 

楚の子元について。

この女ったらしの王弟について君子のコメントはない。正直、兄の王の愛妻に、兄が亡くなった後、手を出しているのも問題だと思うのだが。

ただ、私は春秋戦国を通して、楚国は女性や金目の物の問題が多いように感じる。多分、他の国も同様なことがあると思うのだが、ひどく目立つのだ。楚はもともと殷より前の時代にある祝融の身分の人の血筋である。周王朝とはゆかりはない。また殷の時代の有名な人の血筋でもない。身分も低い扱いである。それゆえに、周王朝から遠い蛮地に土地をもらい受けた。だが、蛮地で発展し、大きくなるにつれ、周王朝から「王」の称号を無理やりもらい、態度も大きくなる。春秋が書かれた魯国は周王朝の血筋(祖は周公)のお家柄である。当然その国の歴史書を書く人、左丘明も魯という国に誇りを持っていただろう。それゆえに楚のような蛮地に対し、無意識に蔑視していたのではないかと疑ってしまう。こういう欲に正直な行為は慎むべき事柄であるのに、忠告もしないとは。「楚ならこういうことするからね」という意識が働いているとしか思えない。現代でも無意識のバイアスがあると言われるが、当時はもっと強かっただろう。こういう小さいところに人の無意識が出てくるのではないかと私は思ってしまうのだ。だからといって左丘明が差別主義者とは思わないが。当時、楚は礼儀なるものがなかったのかもしれない。

※文中に表記できない繁体字簡体字は日本で通常使われている漢字を当てています。

※参考文献

 〈日本〉全釈漢文大系 春秋左氏伝 上・中・下 集英社

     同      尚書          集英社

     春秋左氏伝 上・中・下 小倉芳彦訳 岩波文庫

     史記世家  上・中・下 小川環樹他 岩波文庫

 〈中国〉中国史学要籍叢刊 左傳 上・下 上海古籍出版社

※最後に、ここに記すのはあくまでも私見である。

1.11 健康管理について2

自分の健康管理をすると、自分の体質というか体のくせが分かってきました。

 そのくせのせいで生じる体の慢性的な症状をどう治療すればいいのかと考えた時、症状が出るたびにもう薬は飲みたくないと思いました。

 やっぱり体に優しい自然のものがいい

と思ったのです。

 そこで利用したのがアロマのエッセンシャルオイルや自然のものでした。

 素人で知識がないので、あれこれ専門書やネット情報などで調べ、自分で使ってみました。

 私の慢性的な症状というのは

 ・喉が弱い

 ・肩が凝りやすい

 ・たまに肌荒れ、ヘルペスができる

 ・体温が低い

というものでした。

 結局、その体質改善に役立ったのはどれも有名なものばかり。

 〇喉の弱さにはマヌカハニー

 正直、以前ニュージーランド旅行した際にたくさん売ってあったので、単なる土産物としてしか見てなかったのですが、どうしてもっとこれに早く出会わなかったのかと後悔したほどいいものでした。喉が弱く、乾燥したら声が枯れる人、風邪が喉から来る人には絶対おすすめです。これのおかげで私は喉が改善しました。風邪も一度も引いていません。

(ただ、オーストラリアで冬の海に潜った時は…旅行中だったこともあり引きましたが)

 〇肌荒れ、ヘルペスにはティーツリー(アロマオイル)

 これは有名なハーブですから説明不要ですね。万能です。お肌に直接濡れる唯一といってもいいものです。ラベンダーは私には合いませんでした。

 〇低体温、肩凝りには温かい食事

 食事には反省しました。野菜がいいからといつも生野菜サラダ、スムージーを取っていましたが、胃腸を冷やし、血行を悪くしていました。ただ、温かい食事は体を肥らせます。どちらがいいかと言えば、肥った方がましってことですかね。

 食事についてはまた後日書きたいと思います。

 乳がんはホルモンバランスが崩れていることが原因ということもあったので、ホルモンバランスを整えるゼラニウム(アロマオイル)を必ずお風呂に一滴垂らして入っています。

 いい匂いに癒されます。そして…生理前緊張症が治りました。これはホルモンバランスが整っていると言えるのでは?と思います。これもティーツリーと一緒で家に常備してあります。

 最後に運動のためにジムに定期的に通うようにしました。明らかな体の変化はありませんが、体重の急激な増大をふせぎ、血流の促進にはとても役立っています。

 ガンの治療が終わった時に、友人にガンを告白したら、いいセラピストを知っているから紹介するよと言って、紹介してもらいました。

 アロマセラピーや指圧をしてくれます。それで私の体の調子が悪いところだったり、私の気づかない緊張部分だったりを教えてくれます。それは、私にとっては体の異変のセンサーのような役目なので、とても重宝しています。また、セラピストはとてもやさしくいろんなことに相談に乗ってくれるので、本当に助かります。

 もちろん、今でもずっと頼りにしている人の一人です。

 相性のいい、誠実なセラピストがいるっているのもいいことですよね。

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NZ Milford Sound

 

2.5 語学の勧め

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台湾の孔子廟 儀式があっていました


 

 吃音のしくみについて詳しい医学論文とかあるのでしょうか。神経的なものや器質的なものなど。なにか詳しい、吃音の研究があれば、吃音の悩みがある者にとって、具体的な改善方法が教えてもらえそうで期待できるのですが…

 以前、言友会という吃音のコミュニティーに参加したことがあります。集まって、自分の状況の話など悩みの打ち明けをしたり、言語聴覚士の人が来て講演会をしたりしていました。私は始め、貴重な経験を積めると喜んでいたのですが、具体的な進歩が私自身に望めない気がして、半年もたたずに辞めてしまいました。

 私は職場の研修で半年ほど、東京の語学学校に通い、中国語を習ったことがあります。

 その時、吃音に変化する瞬間を体験しました。

 中国語は、発音がひどく難しく、母音、子音が多数あり、あげくに四声という独特のアクセントがあります。

 そのため、講師の先生は、まず、母音や子音の発音を覚えさせることを重視して、2か月ほど、ずっと発音練習をさせられました。

 …それが、その発音練習中、どれくらい言わされようと、一度もどもることはありませんでした。

 正直、緊張する場面ですら、一度もつっかかることがなかったのです。

 私としたら、びっくりしました。

 ちなみに、英語はほとんどどもらないので、中国語も似たようなものになるのかも?と淡い期待を寄せました。

 そして、発音練習から簡単な単語となり、挨拶、軽い会話練習と語学は進んでいきます。

 それは、会話練習の時に突然起こりました。

 「一定」という言葉の時です。中国語では「きっと、絶対」というような協調するニュアンスの意味になり、発音は「イーディン」となります。

 この言葉がテキストの会話に入っている時でした。

 突然最初の「イ」が出てこなかったのです。

 講師の先生はびっくりした様子でした。私が突然つかえたようになったので、発音方法を忘れたのかしらと思ったようでした。

 とはいえ、その時はまだまだ初級、「一定」の字の上には発音記号であるピンインが印字されています。発音が分からないはずはありません。

 私はなんとか声をふりしぼって発音しました。

 私は先生以上に動揺していました。吃音というのは事前に予感があり、その予感通りにどもるので、どもる前に別の言葉を入れたりして、ごまかす方法を考えるのですが、この時予感は全くありませんでした。突然だったのです。

 その後、「一定」が全然言えなくなり、挙句にほかの単語も言えない言葉が出てきました。

 それまで話せていたのに…にです。

 どうしてその時「一定」が突然言えなくなったのか?

 私はそれが吃音のしくみのような気がします。

 当時、研修員の間でいざこざがあり、私も困惑していた…というストレスのある環境でした。でも、それだけでしょうか?

 話すことを意識しすぎたのかもしれない…とも思いますが、それなら発音練習はもっと意識するのにどもらなかったので矛盾します。

 まるで、忘れていた吃音を突然体が思い出したかのような瞬間でした。

 吃音は体の癖なのか、それとも神経的なものなのか…?よく分かりませんね。

 ちなみに、現在、中国語で吃音になることはありません。

 それは改善されたというより、中国語を話すとき、単語を思い出すのに必死で吃音になる余裕がない…という感触です。

 もっと流暢に話し出せば、また症状が出てくるのではないかと思ったりします。

 まあ、例え吃音状態になっても、「外国語」ですので、相手の人は「あ、発音忘れたんだな。単語忘れたのかな」程度に思って、気にも留めないので、ある意味、私は楽ですけれどね。

1.10 乳がんの原因とは?健康管理について1

治療中は、よくあるガン克服のための食事をしていました。

 野菜スムージーというのを飲んでいました。おかげで5キロ痩せました…。

 ガン体質を変えたくて、今までにない食事をしましたが、それでいいのか分からなくなりました。

 

 担当医が「バランスのいい食事と運動」をすればいいというアドバイスをくれたのですが、バランスのいい食事って何なんでしょう。

 厚生労働省が出している食事のバランスガイド?

 私はガンになる前、変な食事をした覚えはありませんでした。

 お酒もたばこもしませんし、運動不足かもしれませんが週に一度はヨガ教室に通っていました。

 お肉よりもお魚が好きで、青魚はほぼ毎日食べていましたし、野菜だって取らない日なんてありません。

 でも、職場で見かける人で、毎日カップ麺を食べている人、夜は毎日居酒屋で飲んでいる人は私の年齢でガンなんてなっていません。

 私と何が違うのでしょう? 

 ガンの原因について調べてみました。

 ストレス

 免疫の疾患

 食事の偏り

 遺伝

 などなど。乳がんに特化して調べると、乳製品、ヘアカラー、抗生物質、悲しみ、性格…とあれこれ出てきます。

 果たして何が私に当てはまるのか?と自問自答しましたが、はっきりしたものは分かりませんでした。

 先生によれば、私の乳がんは長期間かけて作られたようで、エコーでなんとか存在が分かる程度になるまで10年ほどかかったのではないかということでした。

 私は10年間、この細胞の異形成を育ててきたということなのでしょうか。

 私って10年間どんな生活してきたかしら?

 ますます原因が分かりませんでした。

 原因が分からないと、今後も同じような症状が出てくるのではないかと心配になりました。

 そこで、自分の健康ノートなるものを作ることにしました。

 どこか年配の人が書いているというのをネットで見たのがきっかけなのですが、毎日の自分の生活を記録するものです。

 毎日、体温、体重、体調、食事内容を細かく記録し、食事と体の関係を知るノートです。

 それから、私は一切薬を飲むのを止めました。以前は頭痛、ちょっとした発熱などが起こると、休暇を取れないという気持ちからすぐ薬を飲んでいたのですが、それを止めました。その代わり頭痛などがあれば、無理をせず休むか、少しでも和らげる方法を取ることにしました。

 結果…。ノートは3か月くらい付けました。

 すると、自分の体が少し分かってきました。そして私って、今まで体の声を聞いたことがなかったんだということも分かりました。

 小さな発疹、かすかな頭痛、たまに起こる足のむくみ。

 これって大したことないことだし、無視していましたが、これらすべて体からのサインなんですよね。ちょっと問題が起こってるよって。

 私は生まれてこのかた、こういう体からのサインをずっと無視してきて、たまに悪化した時は無理やり薬で止めて…って、体のこと全く考えていなかったんだと気づきました。

 もしかしたら、それがガンの原因じゃないかなって。

 きっとガンができる前、身体はなにがしかのサインを出していたと思うんです。

 それを無視し続けたせいで、とうとう大きくなったのだと。

 本当に反省しました。

 そして、自分に合わない食材や行動も分かってきました。

 たくさんを気づきを与えてくれた健康ノートに感謝です。