空のなごり

経験、思ったこと、共感できることなど書いてみました。

2.5 語学の勧め

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台湾の孔子廟 儀式があっていました


 

 吃音のしくみについて詳しい医学論文とかあるのでしょうか。神経的なものや器質的なものなど。なにか詳しい、吃音の研究があれば、吃音の悩みがある者にとって、具体的な改善方法が教えてもらえそうで期待できるのですが…

 以前、言友会という吃音のコミュニティーに参加したことがあります。集まって、自分の状況の話など悩みの打ち明けをしたり、言語聴覚士の人が来て講演会をしたりしていました。私は始め、貴重な経験を積めると喜んでいたのですが、具体的な進歩が私自身に望めない気がして、半年もたたずに辞めてしまいました。

 私は職場の研修で半年ほど、東京の語学学校に通い、中国語を習ったことがあります。

 その時、吃音に変化する瞬間を体験しました。

 中国語は、発音がひどく難しく、母音、子音が多数あり、あげくに四声という独特のアクセントがあります。

 そのため、講師の先生は、まず、母音や子音の発音を覚えさせることを重視して、2か月ほど、ずっと発音練習をさせられました。

 …それが、その発音練習中、どれくらい言わされようと、一度もどもることはありませんでした。

 正直、緊張する場面ですら、一度もつっかかることがなかったのです。

 私としたら、びっくりしました。

 ちなみに、英語はほとんどどもらないので、中国語も似たようなものになるのかも?と淡い期待を寄せました。

 そして、発音練習から簡単な単語となり、挨拶、軽い会話練習と語学は進んでいきます。

 それは、会話練習の時に突然起こりました。

 「一定」という言葉の時です。中国語では「きっと、絶対」というような協調するニュアンスの意味になり、発音は「イーディン」となります。

 この言葉がテキストの会話に入っている時でした。

 突然最初の「イ」が出てこなかったのです。

 講師の先生はびっくりした様子でした。私が突然つかえたようになったので、発音方法を忘れたのかしらと思ったようでした。

 とはいえ、その時はまだまだ初級、「一定」の字の上には発音記号であるピンインが印字されています。発音が分からないはずはありません。

 私はなんとか声をふりしぼって発音しました。

 私は先生以上に動揺していました。吃音というのは事前に予感があり、その予感通りにどもるので、どもる前に別の言葉を入れたりして、ごまかす方法を考えるのですが、この時予感は全くありませんでした。突然だったのです。

 その後、「一定」が全然言えなくなり、挙句にほかの単語も言えない言葉が出てきました。

 それまで話せていたのに…にです。

 どうしてその時「一定」が突然言えなくなったのか?

 私はそれが吃音のしくみのような気がします。

 当時、研修員の間でいざこざがあり、私も困惑していた…というストレスのある環境でした。でも、それだけでしょうか?

 話すことを意識しすぎたのかもしれない…とも思いますが、それなら発音練習はもっと意識するのにどもらなかったので矛盾します。

 まるで、忘れていた吃音を突然体が思い出したかのような瞬間でした。

 吃音は体の癖なのか、それとも神経的なものなのか…?よく分かりませんね。

 ちなみに、現在、中国語で吃音になることはありません。

 それは改善されたというより、中国語を話すとき、単語を思い出すのに必死で吃音になる余裕がない…という感触です。

 もっと流暢に話し出せば、また症状が出てくるのではないかと思ったりします。

 まあ、例え吃音状態になっても、「外国語」ですので、相手の人は「あ、発音忘れたんだな。単語忘れたのかな」程度に思って、気にも留めないので、ある意味、私は楽ですけれどね。

1.10 乳がんの原因とは?健康管理について1

治療中は、よくあるガン克服のための食事をしていました。

 野菜スムージーというのを飲んでいました。おかげで5キロ痩せました…。

 ガン体質を変えたくて、今までにない食事をしましたが、それでいいのか分からなくなりました。

 

 担当医が「バランスのいい食事と運動」をすればいいというアドバイスをくれたのですが、バランスのいい食事って何なんでしょう。

 厚生労働省が出している食事のバランスガイド?

 私はガンになる前、変な食事をした覚えはありませんでした。

 お酒もたばこもしませんし、運動不足かもしれませんが週に一度はヨガ教室に通っていました。

 お肉よりもお魚が好きで、青魚はほぼ毎日食べていましたし、野菜だって取らない日なんてありません。

 でも、職場で見かける人で、毎日カップ麺を食べている人、夜は毎日居酒屋で飲んでいる人は私の年齢でガンなんてなっていません。

 私と何が違うのでしょう? 

 ガンの原因について調べてみました。

 ストレス

 免疫の疾患

 食事の偏り

 遺伝

 などなど。乳がんに特化して調べると、乳製品、ヘアカラー、抗生物質、悲しみ、性格…とあれこれ出てきます。

 果たして何が私に当てはまるのか?と自問自答しましたが、はっきりしたものは分かりませんでした。

 先生によれば、私の乳がんは長期間かけて作られたようで、エコーでなんとか存在が分かる程度になるまで10年ほどかかったのではないかということでした。

 私は10年間、この細胞の異形成を育ててきたということなのでしょうか。

 私って10年間どんな生活してきたかしら?

 ますます原因が分かりませんでした。

 原因が分からないと、今後も同じような症状が出てくるのではないかと心配になりました。

 そこで、自分の健康ノートなるものを作ることにしました。

 どこか年配の人が書いているというのをネットで見たのがきっかけなのですが、毎日の自分の生活を記録するものです。

 毎日、体温、体重、体調、食事内容を細かく記録し、食事と体の関係を知るノートです。

 それから、私は一切薬を飲むのを止めました。以前は頭痛、ちょっとした発熱などが起こると、休暇を取れないという気持ちからすぐ薬を飲んでいたのですが、それを止めました。その代わり頭痛などがあれば、無理をせず休むか、少しでも和らげる方法を取ることにしました。

 結果…。ノートは3か月くらい付けました。

 すると、自分の体が少し分かってきました。そして私って、今まで体の声を聞いたことがなかったんだということも分かりました。

 小さな発疹、かすかな頭痛、たまに起こる足のむくみ。

 これって大したことないことだし、無視していましたが、これらすべて体からのサインなんですよね。ちょっと問題が起こってるよって。

 私は生まれてこのかた、こういう体からのサインをずっと無視してきて、たまに悪化した時は無理やり薬で止めて…って、体のこと全く考えていなかったんだと気づきました。

 もしかしたら、それがガンの原因じゃないかなって。

 きっとガンができる前、身体はなにがしかのサインを出していたと思うんです。

 それを無視し続けたせいで、とうとう大きくなったのだと。

 本当に反省しました。

 そして、自分に合わない食材や行動も分かってきました。

 たくさんを気づきを与えてくれた健康ノートに感謝です。

4.1 春秋左氏伝について

※4から始まるものは春秋左氏伝について書きます。

私は中国古代史が好きで、昔からよく漢文を読んでいた。そしてある時から、すっかり春秋左氏伝のファンになってしまった。

はじめはたいして面白くもない歴史書だと思った。しかし、何度か読むにつれて、この作品を書いた左丘明の考えがなんとなく分かって来ると、共感を覚えて好きになってしまったのである。

それで、ブログを利用して、私なりの解釈や心に残る内容などを、素人目ではあるものの記してみることにした。

 

最初に、春秋について簡単な説明をする。(なお、参照にした文献は最後に記載)

春秋というのは中国の周の時代の前半(西暦紀元前722年から479年の間)の歴史書である。

周王朝は、建国直後、一つの帝国としてまとまりが良かったが、周の王が親族や功績のあった臣下に任せた地域がそれぞれ力をつけ始め国となり、軍を動かして覇を唱えるようになったため、群雄割拠の時代を迎えてしまった。周王は名ばかりとなり、各国の長が我が物顔に他国を攻め、滅ぼしたり、利用したりするようになったのである。

周の建国の王である武王の弟、周公が王から与えられた土地が魯であり、この魯が残した歴史書が春秋という。

そのため、歴史書とは言っても、魯から見た各国の動き、魯国内の政治が書かれており、年代記となっている。

日本の昔の知識人は春秋で勉強して儒学を習ったようだが、よく読んだなと感心してしまう。実際、楽しく読もうと思っても、「〇〇年〇月 ××があった」というような堅苦しい内容で、ぱっと読んで面白くないものである。

だが、この面白くもない文章の一言一句には裏の事情が込められており、それを知ることで、春秋の本来の意味、内容の価値、歴史に託したかった作者の想いが分かるのだ。

 

春秋には三つ種類があり、それを三伝と言い、それぞれ「公羊(くよう)伝」「穀梁(こくりょう)伝」「左氏(さし)伝」がある。

日本の本屋、図書館に行っても、実際「春秋左氏伝」しか置かれていない。私もそれにはびっくりした。多分、公羊伝も穀梁伝も日本には伝えられていると思うのだが…中国とは違って、左氏伝が好まれたため、左氏伝だけ残ったのではないかと思う。…まあ大学などの研究所には公羊、穀梁もあるのだろうが。

春秋の三伝の違いについて述べる

「公羊伝」とは

  本来口伝といって暗記して伝える歴史書であった。

  由来は、子夏(孔子の弟子)→公羊高→子平→子地→子敢→子壽→斉の人(この段階で初めて口伝から竹や布に記されたらしい)

  中国ではこの公羊伝が春秋の一番正しいものとしての認識が高く(後漢の時代から)、一番研究されていたようである。

 

「穀梁伝」とは

  由来は、子夏(孔子の弟子)→穀梁俶(穀梁氏はこの後数人続くため省略)→荀卿(荀子のこと)→浮丘伯(荀子の弟子)

  これは荀子がテキストとして使っていたといわれる春秋である。

  内容的には公羊伝とほぼ一緒

 

「左氏伝」とは

  孔子ではなく、左丘明(はっきりしないが、魯国の文官だったようだ)が著作したもの。別に「国語」の作者でもある。

  由来は、左丘明→曽申→呉起→呉期→〇〇(特殊漢字のため表記できず)→虞卿→荀卿(荀子のこと)

  途中、呉起がでてくるところがびっくりなのだが、これは楚の有名な軍師の呉起がかかわったのだろうか?

この後、前漢時、途切れるのだが、王奔の乱が起こった際、劉歆が宮殿の書庫に保管されていた左氏伝を発見し、注釈を加えて世に出した。

ただ、この事件のおかげで、左氏伝は正当な春秋ではない烙印を押され、中国での儒学研究の際はあまり重要視されていないようだ。

 

また、文面を見ると、「公羊伝」と「穀梁伝」はほぼ同一のもので、「左氏伝」は異質のものであると認められる。極端な違いは、文章中の「経」と「伝」の量と内容である。

  「経」とはその年の行事を示し「〇年 戦争があった」など。

  「伝」とは出来事の詳細を示し「〇〇と××がいがみ合い、▽▽の地で決闘を行った時、民衆まで参加を始めて戦争になってしまった」など。

  「公羊伝」と「穀梁伝」は経がたくさん載せてあり、伝は少ない。

  「左氏伝」は経が少なく、伝がたくさん載せている。歴史小説風になっている。

実際の例として、閔公二年の冬の部分の記載を挙げてみる。

〈公羊伝〉

  経 十有二月 狄(てき)入衛

  (十二月、狄国の軍が衛に入った。)「経」の部分のみの記載

〈穀梁伝〉

  経 十有二月 狄(てき)入衛

  (十二月、狄国の軍が衛に入った。)「経」の部分のみの記載。公羊伝と全く同じ。

〈左氏伝〉

  経 十有二月 狄(てき)入衛。

  → 経の部分 (十二月、狄国の軍が衛に入った。)前二伝とここは同じ。

  伝 冬十二月、狄人伐衛。衛懿公好鶴、鶴有乗軒者。将戦、国人受甲者、皆曰、使鶴、鶴実有禄位。余焉能戦。……続く。

  → 伝の部分 (冬の十二月に狄の人が衛を討った。衛の懿公は鶴が好きで、鶴の中には軒(大夫の車)を贈られているものさえいた。それで、いざ狄軍と戦う時に、鎧を受けた国の兵隊たちは皆、「鶴を使えばいいさ、鶴は禄も位もあるじゃないか。なんで我々が戦う必要がある」と言った。)

 

これらを見て分かるとおり、明らかに左氏伝は別の話が加わっている。当時の衛の王様(懿公)は鶴が大好きでいっぱしの大臣扱いしていたのだ。この話は公羊伝、穀梁伝には見えない。

左氏伝は歴史を詳しく記しただけではなく、当時のうわさ話(男女の問題、趣味、占い等)も加わり、ある意味面白いのだが、儒教を学ぶ真面目な学生には奇異な話が多く取り入れられた感も否めず、そういう点からも中国の正当な春秋とは考えられなかったようだ。

個人的にはその奇異なところが面白いのだが…。私はその魅力について思いついたことをいろいろ書いていければなあと思う。

 

最後に、司馬遷、「史記」という歴史書を書いた有名な歴史家(と断言していいのか分からないが)の述懐について紹介する。

司馬遷史記を書くにあたって、彼なりに苦しい胸の内、大きな歴史編纂の事業をなすにあたって、自分の気持ちを綴っている。(報任少卿書より)

「古者富貴而名摩滅、不可勝記。唯倜当非常之人偁焉。蓋文王拘而演周易、仲尼厄而作春秋、屈原放逐乃賦離騒、左丘失明厥有国語、孫子臏脚兵法修列、不韋遷蜀世傳呂覧、韓非囚秦説難孤憤。詩三百篇、大抵聖賢発憤之所為作也。此人皆意有鬱結、不得通其道。故述往事、思来者。乃如左丘無目、孫子断足、終不可用、退而論書策以舒其憤思、垂空文以自見。」

(昔から富貴の人の名前が残らないことは挙げるいとまもないほどだ。ただ非常に優秀な者だけが名を残すことができる。例として、文王は囚人となり「周易」を作り、孔子は困難な日々を過ごす中で「春秋」を編纂した。屈原は国から追われて「離騒」という詩が遺された。左丘は失明して「国語」を表し、孫子は足を切られ「兵法」を編み出した。呂不韋は蜀の地へ流されたことで呂覧を作成し、韓非は秦の地で囚われ、「説難」「孤憤」を世に残した。「詩経」の三百あまりの歌は、聖賢の人の心中が発憤されたものだろう。この人たちは皆、正しいと思っていることが世の中に通らず、心の中に鬱積したものがあったのだ。それ故に過去の歴史を述べて将来の者に託したのだ。左丘は視力を、孫子は足を失い一生使い物にならなかっただろう。だから世の中の表から身を引き、書策を書くことでその鬱積した気持ちを表し、それ残すことで自らの気持ちを世の中に発表したのだ。)

私は10年以上前、司馬遷の墓に行ったが、大層立派なお墓で、小高い山のようになっていた。まだ工事中のところには、現在の中国の文人、有名人らしき人々の賞賛する石碑が、司馬遷の墓標に繋がる小道に延々と立てられていた。司馬遷の願いはかなったのだ。

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司馬遷墓入口

左氏伝の作者である左丘明のお墓はないようだが(もしあったら申し訳ない)、ある意味作品が墓標であろう。書物を残すということは単なる記録ではなく、当時、苦難に遭った人々にとっては政治批判、自分自身の心情の発表に繋がるものだったのだ。

自由に意見が発表できる現代には不要の文学かもしれないが、君主制の、一歩間違えれば命を失うような世界に生きた作家が描いた政治批判を伴う歴史書を紐解くということは、非常に興味深いことではないか。

 

※文中に表記できない繁体字簡体字は日本で通常使われている漢字を当てています。

※参考文献

 〈日本〉全釈漢文大系 春秋左氏伝 上・中・下 集英社

     春秋左氏伝 上・中・下 小倉芳彦訳 岩波文庫

     新釈漢文大系 史記十四 (列伝七) 明治書院司馬遷部分)

 〈台湾〉新譯 公羊傳 三民書局

     新譯 春秋穀梁傳 上・下 三民書局

 〈中国〉中国史学要籍叢刊 左傳 上・下 上海古籍出版社

※注意 私は専門家ではないので、春秋左氏伝一般に関する私の記述については参考になりません。調べ物をする場合は必ず文献に当たっていただきたい。ここに記すのはあくまでも私見である(笑) 

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参考文献

 

1.9 自分へのご褒美

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Croatia Hvar

放射線治療が終わった後、私は食生活を変え、体調を確認するようになったのですが…これは次回書くことにして、まずは、乳がんで傷ついた心と体を癒したことを書きます。

 

 放射線治療で黒くなった肌を早く治そうと、ビタミンCでお肌を白くするために毎日ローズヒップティーを飲みました。柑橘類だと日焼けで逆に黒くなる可能性があったので、その危険性のないローズヒップを利用しました。

 実際、肌の黒さは3か月後くらいには落ち着き(といっても、自分で見ると地肌よりも黒いのは分かります)、多少首元が見えても他人には分からないくらいにはなりました。

 最後まで黒かったのはわきに近いところと、乳房の盛り上がったところでしたね。

 お肌が落ち着いたところで、大好きだった旅行を再開しました。

 まずは温泉旅行。もちろん高級旅館を予約して、夕食をたっぷり食べました。

 それから、変身写真。

 変身写真とは、普段と違う格好をして写真を撮って、しかも美人に画像処理してくれる写真撮影です。

 私は中国の大連でしましたが、中国主要都市、台湾、香港で写真館があります。

 日本人はおしゃれして写真撮るとき、顔までパソコンで加工はしませんが…。中国ではするんですよね。(今ではアジア圏でこういう写真館はどこでもあるかもしれませんが)

 私は、中国の衣装で面白半分に写真を撮り、超超美人に画像を加工してもらい、アルバムを作ってもらいました。

 いやあ、メイクがすごかったのと、衣装が重かったので、撮影終了時は疲労困憊でした。

 写真はこんな感じです。

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変身写真

 私ですが私ではありません(笑)

 アルバムを製本してもらったら、この写真には詩経の秦風に収められている「ケンカ(特殊漢字で表示できない)」の詩が付けられていました。失った人を求めて川をさかのぼり、探していく歌です。

 こういう写真は恥ずかしいと思う方なのですが、病気になったので、ちょっとでも元気そう、綺麗そうに見える自分の姿を残すことにうれしさを感じました。

 大好きな一人海外旅行も再開。クロアチアへ行き、ザグレブ空港内のベンチで夜を明かしました。交通手段が便利でWi-Fiも充実していた国だったので、比較的楽な旅行でした。

 プリトビチェ国立公園内を散策して、一日中歩き回っても平気だったので、すっかりガンだったことを忘れ、フヴァル島で、美しい港を散策しながら、ちょっとおしゃれな服を着て夜のそぞろ歩きついでにホテルのディナー、すべて最高だったです。

 なんか、治療後というのが解放感と、新たな人生の一ページを開いた気がして…生まれ変わった気持ちになれました。

 苦しい治療を終えた後は、自分にご褒美と楽しみをしっかり与えるのは絶対必要です。

1.8 治療終了

放射線治療が終わったのは、最初の検査をしてから半年後のことでした。

 放射線を当てた場所は日焼け以上の黒さで本当にみっともない感じ。右乳房を覆うように大きい■の長方形ができたという感じ。

 鏡の前に裸で立つと、四角にくくられた黒い肌が、とても不自然な感じで、気持ち悪く感じました。

 ただ、身体に記された+などの印を洗い流していいという許可がでたのはうれしかったです。やっと放射線から解放されたとうれしくなりました。

 

 放射線治療を受けると、肌が黒くなるだけではなく、当てた部分の毛が無くなります。毛穴もなくなるので、汗をかきません。つるつるして肌触りがいいです。

 わきの一部も放射線が当たったのですが、その部分の腋毛がきれいに無くなり、生えてもこないので、放射線の怖さを感じました。

 約5年後の現在、産毛は復活しました。ただ、汗はいまだに出てきません。汗腺は死滅したんでしょう…。

 

 先生から、放射線治療の後に5年間のホルモン治療を勧められましたが、断りました。

 海外の論文を読んだり、自分で調べたりした結果、ホルモン治療をしたくないと判断したためです。

 先生は困惑していましたが、ホルモン治療で鬱を発症する人がいることや、私がまだ初期の乳がんで再発の可能性が少ないことを考慮し、ホルモン治療をしないことに同意してくれました。

 先生に

乳がんの原因は何ですか?今後私に気を付けることはありますか?」

と尋ねたところ、

「原因は分かりません。現在はっきりとしたエビデンスはありません。ただ、運動不足というのは言われています。その他は分かりません。健康のためにと言って偏った食事は危険です。バランスのとれた食事をして下さい。あと、私の経験上、肥満になると再発するように感じます。肥らないように気を付けて下さい」

とアドバイスをもらいました。

 当時、私は健康診断などで肥満という結果ではありませんでしたが、人生の中で一番体重があったことも事実ですので(体重は55キロでした)、それ以上は肥らないようにしようと思いました。

 

 診断後、先生と相談し、今後は、年に2回病院に行き、定期検査を受けることになりました。

 毎週のように病院に通っていましたが、その日から、もうガンに関わることはなくなりました。うれしいような心配なような。もう治療行為はなくなりましたが、あとは自分で自分の体を見守るしかなくなったのです。

2.4 就職後

 私の最初の勤務先は鹿児島で、私はいきなり知らない土地、知らない言葉に直面することになりました…が、これが吃音にいい影響がありました。

 吃音症状がとても改善して、私の周りの人は私の吃音に気づかなくなりました。

 だからといって、たまにどもることはありますが、ほとんどの場合はスムーズに言えるようになりました。

 

 改善した理由を考えてみました。

 ① 鹿児島の方言が私の症状に合っていた。(鹿児島滞在は3年間でしたが)

  鹿児島の方言は標準語と明らかに違う特徴があり、それは単語ではなく、イントネーションが標準語と逆ということです。

  大げさにいえば歌うような抑揚が伴うので、話しやすくなります。

  歌う時はどもりません。ですから、鹿児島弁で話すことに慣れていけば自然と言葉に詰まる機会も減るようになったのだと思います。

 ② 一人暮らしの生活が話す機会を増やした。

  一人暮らしだと、好きなだけ独り言が言えるし、職場で知り合いを増やしたかったので、他人との会話も以前に比べて積極的になっていきました。

  独り言は傍目から見れば変な人に見えますが、吃音症状に悩む人にはお勧めです。

  一人生活の時は、鏡の自分に向かって。あるいは写真の誰かに向かって、好きなことをどんどん話してみてほしいと思います。

  一切どもらないで話せる時間をたくさん持つと、実際の吃音症状は軽減していくようです。

  独り言はほとんどどもりません。

  それから他人との会話にチャレンジして成功する度に自信がついていい影響を与えてくれます。

 

 もちろん、仕事上で困ったことはありました。

 よく話すようになったことで、ウグイス嬢をあだ名を付けられ、放送でアナウンスするよう言われて、どもってしまいました。

 どもった様子をみて、皆「相当緊張したの?」と言いましたが…。もともとの症状なんですけれどね。普段の私の会話を見れば吃音は想像できなかったのだと思います。

 電話は最初苦労しましたが、自由なところでしたので、いろんな電話を取り方、受け答え方をしても誰も注意しなかったし、電話でどもることは回数を重ねるごとに減りました。

 相変わらず、母音で始まる言葉は苦手でしたが。

 一度、大きなイベントで、司会をするように指示され、困惑していたのですが…。大きな災害があり、イベントが中止になったことで、救われたこともありました。

司会は絶対無理ですね。どれだけ改善したとしても。

2.3 高校から大学時代

このころになると、吃音でいじられることは少なくなりました。

 というより、周りがいじめをするような人がいなかったので、多少私の話し方がおかしくても誰も気に留めなかったんだと思います。

 

 このころ、英語を話すときはほとんどどもらないことに気づきました。

 それから、話す時も、少しは改善されて、ひどい吃音状態とはならず、上手に隠せるようになりました。

 

 結局私が苦手なのは

 母音で始まる言葉「あ」「い」「う」「え」「お」

 順番が回ってくるような緊張を強いられる時は話す内容を考えすぎて、詰まる言葉を作ってしまう。

 苦手としている人の前。

 ということが分かってきました。

 明らかにどもりそうになった場合は、やたら修飾語をつけて回避しようとするので、友人から「状態副詞が多い」「修飾語好き」と言われました。

 私としたら、どもって、友人に変な顔されるくらいなら、言い回しが長くなって困惑される方がよかったのです。

 

 吃音を心配して両親が私を音楽の道に進ませようとしましたが、私は結局音楽には進むことができず、普通の大学に行ってしまいました。

 

 大学時代、事務員のバイトをしたのですが、そこの電話に苦労しました。

 電話に出るときに決まりがあり、必ず「ありがとうございます。〇〇会社です。どのようなご用件ですか」と言わないといけませんでした。

 私は母音が苦手なので、まず「ありがとうございます」の「あ」が出てこないので、電話に出ても、声を発することができません。しかたなく「もしもし」「はい」「こんにちは」などと先に言って、「ありがとうございます」へとつなげようとしたのですが…。

 ある日、その会社の社長から電話がかかり、それを私が取った際、「ありがとうございます」を最初に言えなかったため、怒鳴られ、「お前はそんな言葉もしゃべれないのか!辞めろ」と言われました。

まあ、その日に解雇になりましたが。

 

 就職は、当時、超氷河期で苦労しました。

 面接や事前訪問などで、質問や答えている時に、どもって失笑をかったりしました。当然採用ならず。

 唯一、私が採用されたのは、面接でどもらなかったところ。

 なぜどもらなかったか?

 それは、面接の際、それまで受けていた不採用や女性差別に対して諦めと怒りで、頭に血が上った状態で受け答えしてしまったから、全くどもらなかったという…。

 怒りというのは吃音を抑えてくれる一つの魔法なんです。

 明日、どもらずに話したいという場合、激怒して話すと大丈夫です。でも、誤解を生むかもしれません…、

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イタリア アマルフィ