空のなごり

経験、思ったこと、共感できることなど書いてみました。

4.6 春秋左氏伝 驕り過ぎた者の末路(崔杼の場合)

 

※4から始まるものは春秋左氏伝について書きます。

 

崔杼(さいちょ)は斉で活躍した寵臣である。

斉は始祖を太公望呂尚とする国で、春秋・戦国時代を通して内乱、戦争が起ることはあっても、国土を極端に失うこともなく、秦が統一するまで細く長く生き続けた。

この国でも、大夫に強力な家系が多い。

今回はその中でも家柄がさほどでなかったにも関わらず、斉侯の寵愛を受け、大夫たちを押しのけて権力をほしいままにした崔杼を取り上げたい。

寵臣の中にも長く国王と近い関係を築き、子孫ともども繁栄を謳歌する者もいれば、この崔杼のように一気に命まで失ってしまう、そういう寵臣もある。

その差は何から生まれるのか。考えてみたい。

 

〇春秋左氏伝から抜粋

宣公十年 599BC

 斉侯(恵公)が亡くなる。重用されていた崔杼をよく思わなかった高氏、国氏の大夫達はこれを機に崔杼を斉から追放した。崔杼は衛に行った。

成公十七年 574BC

 斉侯(霊公)は崔杼を大夫に任命する。

襄公六年 567BC

 霊公は萊(らい)という小国を滅ぼし、崔杼はその土地の区画整理をした。

襄公十年 563BC

 崔杼は大子光(跡継ぎの王子で名は光)を連れ、鄭に各国が進軍した時に真っ先に参加した。

襄公十四年 559BC

 晋の悼公が主体となって秦に各国が攻め入った際、斉から崔杼が参加したが、態度が怠慢だった。

襄公十九年 554BC

 霊公は大子光を大子から外し、お気に入りの妻戎子が薦める牙を大子にして、その教育係に高厚、側近に夙沙衛(しゅくさえい)を任命した。

 霊公が危篤になると、崔杼は光を呼び戻し、戎子を殺して光を斉侯(荘公)にした。

 牙は郊外に囚われ、夙沙衛は高唐に逃げ、高厚は殺された。崔杼は高厚の財産を没収した。

 後、大夫の慶封は夙沙衛を捕らえるため、高唐を攻めたが、うまくいかず、荘公自ら攻め、高唐の人の協力で夙沙衛を殺害した。

襄公二十三年 550BC

 荘公は晋に攻め込もうとまず衛に攻め込んだ。

 晋は強大で、各国の盟主でもあるので、大夫の晏平仲(晏嬰のこと)や陳文子が戦争の結果を心配するが、荘公は言うことをきかない。崔杼も説得するが、だめだった。

襄公二十四年 549BC

 晋が攻めてきたと知った荘公は、楚に陳無宇(ちんむう)を行かせ、援軍を乞うようにした。それを崔杼は護衛して向かったが、途中で莒(きょ)の土地に攻め込んだ。

襄公二十五年 548BC

 亡くなった棠公の夫人だった棠姜が、美人だったので、崔杼が後妻にしていた。

 その棠姜は、荘公とも不倫しており、荘公は崔杼の邸に入って崔杼の冠などを取り、他人に贈ったりしていた。それを知った崔杼は憤慨し、荘公を殺害する計画を立てていた。

 莒の当主が荘公に面会に来た際、崔杼が病気で欠席したので、心配した荘公は崔杼の邸に向かい、見舞った後、不倫相手に会おうと棠姜の部屋に行った。しかしそれは罠で、その部屋に閉じ込められ、侵入者として殺された。

 荘公と共に崔杼の邸を訪れていた公の側近たちもその時に全員殺害された。

 崔杼は荘公の後継に景公を立て、補佐役になった。慶封を左相とした。

 荘公死後12日後に、崔杼は荘公を埋葬した。

 晋侯が衛の献公を衛に戻すため、亡命先の斉に家臣をやった。その時、崔杼は献公の妻子を人質に取り、衛の領土と交換するよう迫った。

襄公二十七年 546BC

 崔杼の子、崔成と崔彊(さいきょう)は前妻の子で、崔明は後妻の棠姜の子だった

 崔成と崔彊は崔明とその叔父らが父崔杼に取り入り、利用するので腹を立て、大夫で力を持っている慶封に崔明らを排除したいと相談をした。慶封は権力を持っている崔杼を除くいい機会だと思い、崔成と崔彊を利用することを思い立ち、彼らの崔明ら暗殺計画を支援することにした。

 そして九月、崔成と崔彊は、崔明の伯父である棠姜の兄らを殺害した。それを知った崔杼は慶封に助けを求める。慶封は援助すると言いながら、部下を派して崔杼の邸を攻め、その家財を奪うと、崔成と崔彊を殺し、棠姜は自殺した。

 何かも失った崔杼は自殺した。崔明は運よく逃れ、魯に逃亡した。

 最終的に慶封が斉のすべての実権を握った。

〇斉の実情

 斉は春秋の国の中で一番東に位置する国である。

 当時の大国は北の晋、南の楚であった。

 斉は晋ほどではないが、大国である。もともと晋と親しく、楚とは対立の立場で、魯、鄭、宋、衛という小国とは小競り合いを繰り返していた。

 崔杼が出てくる頃、斉は晋と仲たがいし、小国をどれだけ従えるか競争しているような情勢で、衛、莒などは領土を侵害され、晋や楚、斉との間で逃げ惑うばかりであった。

 崔杼は恵公の死後、頃公となった際、衛に追放されている。頃王の時代、斉は戦が多いものの、内乱は無く、善政を敷いていたと評してもいい。

 頃公の亡くなる時、霊王の母(頃王の妻)が家臣らと浮気をしたことが発端で内乱が起こる。そして霊公即位後、崔杼が大夫に返り咲いた。(いつ衛から戻ったのか記述がないため不明である)

 霊公の政治はいまいちだ。斉と晋が同じ国力だと勘違いし、晋と何度も戦争を繰り広げた。当時の晋は悼公という人望がある君主で、小国がなびいていた。そのため、斉が晋と戦っても旗色が悪い。

 霊公の後、荘公となるが、この跡継ぎ問題も波乱を呼び、崔杼のバックアップで大子光が最終的に斉侯(荘公)となる。荘公は父の影響か、大夫達が止めるのも聞かずに晋に立ち向かっている。

 荘公はその後、晋に対抗するため、南国の楚と仲良くなる。そして晋からの亡命者欒盈(らんえい)というお尋ね者を匿ったり、晋の隙を狙って戦をしかけたりしている

 そのため、魯から亡命して斉に来た臧紇(ぞうこつ)が荘公に向かってこんなことを言っている。荘公が晋と何度も戦ったんだと自慢した後のセリフ。

 「多則多矣。抑君似鼠。夫鼠晝伏夜動、不穴於寝廟、畏人故也。今君聞晋之乱、而後策焉、寧将事之。非鼠何如」

  →すごいことはすごいですね。あなたはまるで鼠だ。ご存じのように鼠は昼に寝て夜に活動する。そして人の寝室やお墓に穴を開けないのは人間を恐れているからです。まさにあなたは晋の内乱を聞くと攻め、晋が平和なら大人しく従順だったのでしょう。鼠じゃなかったら何でしょうね。

 荘公はこの言葉に気分を害し、臧紇に領土をやろうと思っていたが、止めてしまった。

 左氏伝ではこの臧紇は、荘公の将来を危惧して身の安全を図るためにわざと嫌われたと説明されている。わざととはいえ、当時の人物評価そのままなのだろう。

 荘公はその後、崔杼の妻との浮気が発端で死亡。その後を継いだ景公が斉侯となる。

 景公は崔杼、慶封亡き後、晏嬰が補佐し、盛り立てている。

〇崔杼と権力を二分した慶封

 斉には昔から大夫の家系である高氏、国氏、鮑氏がある。それ以外の大夫はあまり表にでてこなかっただけで斉の朝廷には存在していたようだ。

 慶氏は崔氏と同じくそのような家柄だったのだろう。崔杼が活躍した時期に急に表に出てくる一族である。

 慶氏は慶克から名前が出てくる。彼は霊公の母と不倫をしていた。それを目撃された国佐(国氏)、その仲間だった高無咎(こうむきゅう・高氏)、鮑牽(ほうけん・鮑氏)を二人で除外しようと企てた。結果、高無咎は他国に逃げ、鮑牽は刑に処せられた。国外で霊公と共に鄭を攻めていた国佐はそのことを聞くと、高無咎の子がいる盧を包囲している慶克を殺しに行った。結果、慶克は殺され、国佐とその子国勝は勝手な行動をしたので霊公から殺されたのだが、国氏の国弱が残った。そして慶克の子慶封が大夫となった。

 慶封は崔杼と同時期に霊公、荘公に仕えるが、諸侯の軍団が鄭や秦に攻め入る時に斉の代表として崔杼が採用されるのとは反対に慶封は政治的な活躍の場が見られない。荘公が立つときの内乱時に軍を出し残党を攻める役があったが全く歯が立たず、荘公自身が出てくる羽目になっている。

 崔杼が荘公を殺した後、慶封は実権を握り存在感を増す。そして崔杼が内乱で殺された後、棚ぼた式に斉の朝廷の最高権力者となる。

 しかし慶封は人格も才知も低かったようだ。

 権力者となった後の彼の生活は「田而嗜酒」狩猟と酒が大好き…そういう性格の人である。

 また、魯に使者した時、彼に対し叔孫穆子が詩「相鼠」を歌ってその態度を注意するが、慶封は詩を知らず、意味が分からない。

 崔杼を家庭の内乱を利用して殺した慶封だが、崔杼死亡から2年後、かれもお家騒動が起こる。息子の慶舎が殺され、魯に逃亡する。

 逃亡先の魯で、慶封は叔孫穆子の目前でまた不作法だった。穆子は困惑したのか歌い手に詩「茅鴟(ぼうし)」を朗読させてその作法を批判したが、慶封は詩の意味がさっぱり分からなかった。

 当時、詩は教養の一つで、前に紹介した季札や、この時代に活躍した外交官や重臣はすべて詩を理解し、暗唱していた。斉は大国である。その重臣である慶封がその詩に無知というのは恥ずべきこと…つまり、身分にそぐわない知能だったというわけだ。

 最後に慶封は魯から呉に逃れ金持ちとなるが…最終的に楚に攻められ、過去の罪を理由に処刑されてしまう。

 穆子が慶封に対してのコメントが面白い。慶封のこれまでの行いに反し呉で財産に恵まれていることについての彼の意見

「善人富謂之賞、淫人富謂之殃、天其殃之也。其将聚而殱旃矣。」

 →善人が富むのは賞と言い、淫人が富むのは災難と言う。天は慶封に災いを与えようとしているのだ。きっと悪道を極めさせて殲滅させるのでしょう。

 確かに、慶封の死も見せしめのような刑罰でひどい結末であった。

〇崔杼の後妻

 彼女の正式な名前はないが、棠姜、あるいは東郭姜と呼ばれる。

 棠(とう)は小国の名前で、斉の霊公から滅ぼされた。彼女はこの棠の君主の妻だった。彼女の姓は姜(きょう)で、棠の国に嫁いだ姜さんという名前。東郭(とうかく)は兄の姓なので、それに付随して東郭姜という名前でも呼ばれるのだろう。

 棠が滅んだ時(襄公六年567BC)、棠公が亡くなったので、その弔問へ行った時に崔杼は彼女にあい、その美貌に惚れている。

 崔杼は斉の丁公(二代目か?)の子孫。彼女は斉の覇者桓公の血筋なので、同じ家系(姜姓)である。そのため、同姓同士の結婚は止めた方が良いと、彼女の兄の東郭偃が反対する。

 そこで崔杼は筮を立てて将来を占うのだが、結果は「困」→「大過」という結果。絶体絶命のような状態から問題なく成果が出るという内容。一見いい結果のように見えるが、同じ斉の大夫である陳武子はそれを不吉だと言う。理由は下から三番目の爻(こう)が陰から陽に変わることから、上部三つの爻が表す長女を下部三つの爻の男が巽(風の意)に変わって吹き飛ばす相である上、「困」の六三(下から三番目の陰の爻のこと)の意味が不吉だと言った。

 ただ、崔杼は彼女に惚れていたのだろう。陳文子の忠告を無視して彼女と結婚する。

 当時、崔杼は50歳前後ではないかと思う。彼女は20代くらいか。崔杼との間に一子崔明を産むが、荘公とも不倫をしていた。きっと荘公は彼女と歳が近かったのでは?と想像する。

 荘公は彼女の邸に行くので、崔杼の持ち物を手に入れることができ、それを朝廷の場で他の家臣に下賜していたので、崔杼は荘公に憎しみを抱くようになった。

 最終的に、荘公は彼女と不倫しようと崔杼の邸を訪れた際、崔杼の罠にはまって殺される。

 しかる後、崔杼は前妻の息子の崔成、崔彊、そして棠姜との間の崔明、棠姜の兄東郭偃、棠公との間の子棠無咎の間の内乱が起こり、慶封の策により、命を失う。その際、彼女も自殺した。

〇殺害の連鎖

 栄華を極めた崔杼の死亡は彼が活躍した頃からの因果なのではと思う。

 人物の因果関係を分かりやすくするために箇条書きにする。

  ①崔杼は重用されていたが、高氏から追放された。

  ②崔杼が補佐していた大子光(のちの荘公)が廃され、公子牙が後継者に指名されるとその補佐役に高厚(高氏の一族)が任命される。

  ③霊公が亡くなると、崔杼は公子牙を追放し、高厚を殺害。

  ④崔杼が荘公を弑する。景公立つと崔杼と慶封が実権を握る。

  ⑤崔杼の家族内で内乱が起き、慶封は部下の盧蒲ヘツに相談すると「荘公を弑した  ので放っておけばいい」とアドバイス

  ⑥慶封は崔杼の内乱を利用して崔杼らを殺害

  ⑦荘公の臣下だった盧浦癸(ろほき)は慶封一家を殺害しようとするが、慶封は逃げる。

  ⑧呉に逃亡した慶封だったが、楚が攻めてきた時に捕らえられ、荘公を殺して景公をおろそかにして実権を握ったことを理由として処刑される。

 殺害の因果は怖いものだ。

 崔杼は斉侯(霊公)の信任厚く、諸侯の集まりや戦に参加するほどの重臣であったにも関わらず、その我が強すぎて命を取られてしまった。

 陳文子は、荘公が晋の隙ばかり狙って無謀な戦をするので、崔杼に相談した。すると崔杼は国よりも自分が大事だ。いざとなったら荘公を捨てようというような発言をする。それを聞いた陳文子の言葉。

 「崔子其将死乎。謂君甚而又過之。不得其死。過君以義猶自抑也。況以悪乎。」

 →崔杼はそのうち死んでしまうだろう。君主に対してそのひどさを指摘しておきながら、自分はそれよりひどいではないか。まっとうな死に方しないだろう。君主より自分たちが正しいと思っても、私たちはそれを指摘することを抑えるというのに。ましてや君主よりも悪いなんて。

〇晏嬰に見る無道な権力者の元での上手な生き方

 晏嬰は後に「晏子」として有名な賢人である。彼は、襄公十七年556BCに父の晏弱が亡くなった後大夫となっている。非常な倹約家としても有名だが、それが彼を助けたと思われる。

 崔杼が荘公を殺害した時に、晏嬰は荘公の遺体と対面するために危険な崔杼の邸を訪れるのだが、崔杼は部下が晏嬰を殺そうと言うのを否定した。晏嬰が国民に人気だったからである。彼は危険を顧みず崔杼の邸へ行ったのは、国君に対する礼儀を尊重したからだと思われる。そういうところも国民の心をとらえる行為だったのだろう。

 また、慶封家の内乱の時、慶封は朝廷に出す料理で問題が発生し、それに乗じて内乱を考えて事前に晏嬰に相談しているが、晏嬰の返事は

「頭が悪いので分かりません。ただ、あなたの話は内緒にしておきます」

といううまい逃げ口上であった。彼は慶封の身に何らかの危険が近づき、そのうち滅びるだろうと予測していたに違いないが、それ以上に、危険な権力者には近づかない信条を持っていたのではないかと思われる。

 最終的に慶封が追放され、景公から褒美として土地を賜る話があったが、彼は断っている。その理由として帯の幅の話をし、富とは上限があり、それ以上富があるのは不幸になるのだと話した。

 彼は「足るを知る」を実践したのだ。身分の高い家柄に生まれながら、自身の欲を制御できるというのは難しい。晏嬰が後世に賢人ともてはやされるのはここから来るのだろう。

〇同姓同士の結婚

 今回取り上げた部分に、同姓同士の結婚が2回出てくる。

 1.崔杼と棠姜

 2.慶舎の娘と盧蒲癸

 両名とも姜姓どうしである。

 生物学的にも遺伝子が近いと問題があるのは分かっているのだが、当時は迷信に近い状態ではあるが常識として禁忌だったのだろう。

 そのような禁忌を破ったら死が待っているという暗示をこの人物たちの結末で証明している。

 禁忌を破るというのをもっと掘り下げてみると、ようするに「欲が強く、普段してはいけないことすらも破る」人は不幸が待っている…ということだろうか。

 しかし、斉の大夫達のほとんどが公子出身なので姜姓ではない者はいないだろう。婚姻先を他国に求めないといけないのではと思ってしまう。

〇最後に

 崔杼は出番が少ないと思って取り上げてみたが、あまりにも幅広く深いので長文になってしまった。

 このころの春秋諸国はどこも内乱、君主殺しのオンパレードとなっている。

 そしていろんな家族が絡み、他国間の横の繋がりも多い。それを紐解くと、左丘明の思惑、考えが透けて見えてくる。

 崔杼、慶封も「こうなってはいけない」というお手本なのだろう。

 彼らには「怠惰」「欲深」「自己中」という共通点がある。確かにこういう人は現代でも波乱含みだろう。しかし、誰しもがそうなる可能性がある。自制するというのは難しい。左氏伝を読みながら「他人事」とは思えないエピソードは沢山ある。

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山東省 泰山の代廟

 代廟の正面入り口である。

 斉の国のあったところで旅行したというのは青島と泰山、済南くらい。

 済南でパスポートを無くし、私は苦境に立たされた。済南の政府機関の人はきちんと決まりに基づいて対応してくれた。しかし青島は担当者の気分で変わってしまう様子だった。困惑した私は日本に帰れるか分からない立場に…というひどい旅行をしたことがある。無事に帰ったが。帰国のため空港へ向かうハイヤーの運転手に愚痴を言っていたら「五体満足なんだろ?それでいいじゃないか」と慰めてくれた。

 代廟は泰山を祭る有名な場所。古来から王が泰山を祭る際に訪れたところだ。荘厳な雰囲気と堂々としたしつらえに圧倒された。

 

※文中に表記できない繁体字簡体字は日本で通常使われている漢字を当てています。

※参考文献

 〈日本〉全釈漢文大系 春秋左氏伝 上・中・下 集英社

     春秋左氏伝 上・中・下 小倉芳彦訳 岩波文庫

     史記世家  上・中・下 小川環樹他 岩波文庫

     易経 上・下      高田真治他 岩波文庫

     新釈漢文大系 史記(本紀)(世家)   明治書院

 〈中国〉中国史学要籍叢刊 左傳 上・下 上海古籍出版社

※最後に、ここに記すのはあくまでも私見である。