空のなごり

経験、思ったこと、共感できることなど書いてみました。

4.7 命より真実(無名の大史の場合)

※4から始まるものは春秋左氏伝について書きます。

 

前回4.6で斉の崔杼について書いたが、彼が登場する左氏伝の記載の中に無名の大史の話が出てくる。

大史とは国の歴史に関わる記述を歴史書として残す官僚のことで、有名な人では後世の漢の司馬遷もその身分(なお、表記は太史であるが)である。左氏伝として残されている春秋の原文は魯の大史が書いたものだと思われる。その春秋原文に孔子なり、著述家なりが加筆して春秋公羊伝などに変わっていったのだろう。

つまりは、大史という官職は国の歴史を書き残して後世に伝える仕事を担っているのだ。

今回は命を失っても歴史の真実を書き残そうとした無名の大史について書きたいと思う。

ひどく短い文であるので、原文を載せる。

 

〈原文〉

襄公二十五年 (伝より抜粋)

(崔杼が斉の荘公を崔杼の邸で殺し、慶封とともに斉の実力者をなった後)

史書曰、崔杼弑其君。崔子殺之、其弟嗣書。而死者二人。其弟又書。乃舍之。南史氏聞大史盡死、執簡以往。聞既書矣、乃還。

 

〈現代語訳〉

(崔杼が荘公を殺して景公を立てたことから)歴史書を書く大史は歴史書に「崔杼がその君主を弑した」と書いた。崔杼はその大史を殺した。殺された大史の弟も同じことを書いた。そしてさらに二人も死人を出した。(弟で4人目の)大史まで同じことを書いたので、とうとう崔杼は諦めてそのままにした。南の地域に住んでいる別の大史が、都にいる大史が殺されたと聞いて、「崔杼弑其君」と書いた簡策(竹でできた細長い板。昔の人はこれに文字を記載し、革ひもで綴って一つの巻物にすることで書簡とした)を持って都へ向かった。しかし、(4人目の)新しい大史が書いたものが採用されたと聞き、もと来た道を引き返した。

 

〇「真実を書く」ということ

これは権力者が自分に都合の悪い真実を歴史書に残したくないことから、記述した官僚を次々に殺したという事案である。

崔杼は、民衆の目を気にする人物なので、荘公を殺した時にその場所を訪れた晏嬰を民衆に人気があるからという理由で殺さなかった。だからこそ、歴史書に「君主を弑した」と書かれるのはまずかったのだろう。

大史は官僚で、家柄が代々受け継ぐ官職のようである。そのため、職に就いた者が殺されると、その兄弟、あるいは息子が継ぎ、その官職を担っていた。今回、兄弟は4人だったのだろうか、官職にあった長男が最初に記述し、崔杼に殺され、次男も同じ記述をし、また殺され、三男も同じ記述をしてさらに殺され、最後の四男も同じ記述をしたが…とうとう崔杼は根負けしたようだ。

 

ここで思うのは、この兄弟の執念である。命の危険性があるのならば、「弑した」とせずにほかの文字で書けば殺されなかっただろう。しかし、それを彼らは許さなかったのだ。それは南大史の経緯にも出ているが、南部に住んでいる大史は、都の大史が殺されたと分かっていながら、同じ記述を書いた竹簡を手に持ち、都に馳せ参じている。もし、兄弟4人殺されたとなれば、この南の大史も同じ運命になる危険性があったはずだ。それなのに「弑した」記述にこだわる。それはいったい何なのだろう。

 

「弑した」というのは崔杼が君主に対して逆賊的な罪なことをしたという記述である。実際、崔杼には君主を殺す正当な理由はない。彼にとっては妻と不倫をして自分を馬鹿にしたという理由があるだろうが、国の歴史の観点からは「弑した」が「真実」なのだ。きっと大史らは「真実を書く」ということを自身の職業の誇り、信念としていたに違いない。それは命と引き換えになったとしても…ということだ。それは3人もの死者を出しながら、それでもなお記述するという行為に現れている。

 

しかし、大史が何人も殺されているというのに、斉の大夫達は誰も止めようとしなかったのか。そういう意味で、私は晏嬰だろうと陳文子だろうとあまり感心しないのだが。歴史書の重要性を唯一感じていたのが同僚の南部の大史だけだとは…あまりにも悲しい。

 

ちなみに春秋(魯の歴史書)の経の部分には「斉崔杼弑其君光」とあるので、斉の大史が書き残せなかったとしても、魯では書き残せたのかもしれない。

 

〇左氏伝の独自性

なお、この大史の経緯は公羊伝や穀梁伝に記述はない。この二書における重点は「なぜ崔杼は荘公を殺したのか。荘公は部下にどうしたらよかったのか」ということに置かれており、大史のような無名の官僚の経緯にスポットは当たっていない。

面白いことに司馬遷史記、世家の斉太公世家にはこの話がある。司馬遷が左氏伝を参照したことにも由来するだろうが、わざわざ記述しているのは、彼なりに大史という身分を意識していたとも考えられる。司馬遷はこの斉の大史についてどういう気持ちだっただろうか。

左氏伝は世俗的な話も多く、男女の関係、名前も残らなかっただろう身分の人のセリフ等出てくるのだが、この大史の話もその一つだ。

左丘明がこの悲劇の大史の兄弟を載せたのは、彼らの官職に対する忠実さや命の危険も顧みず、歴史書の記述の真実性にこだわった行為を賞賛したのだろうと思う。

そういう左丘明の好みが出てくる所が左氏伝の魅力と思う。

 

〇今思うこと。

2022年4月現在。ウクライナで戦争が勃発している。ミャンマーや香港で国の政府が国民を虐げるのを悲しい気持ちで見ていたが、まさか、他国を侵略することが起きるとは。平和というものがいかにはかないものか痛感する毎日である。

そんな中で報道を目にしていると、その「信憑性」「真実性」というものがいかに大切かというのも痛感させられる。

ある国では政府に有利な報道しかしない。これは日本が第二次世界大戦中にも似たようなことをし、国民をだましていたが、そういう手法はそれらの国々では今でも通常のことなのだろう。

その中で真実を報道し、形として残すというのがいかに危険かということはよく分かる。それに照らすと、2千年以上前の大史はよくやったものだと思う。国家の権力者の不都合な事実を国民に知らせ、後世に残す…それがいかに難しいことか。

ただ、当の国内で欺罔が行われていたとしても、良心ある国家がその事実を報道し、歴史として残すことができたら…それが後世に真実を残す唯一の方法か。

しかし、現実、今を生きている人が無残に殺され、虐げられているのは、本当に気の毒で可哀そうだ。何かしてあげたいと思っても難しいというのが歯がゆい。

 

※文中に表記できない繁体字簡体字は日本で通常使われている漢字を当てています。

※参考文献

 〈日本〉全釈漢文大系 春秋左氏伝 上・中・下 集英社

     春秋左氏伝 上・中・下 小倉芳彦訳 岩波文庫

     史記世家  上・中・下 小川環樹他 岩波文庫

     新釈漢文大系 史記(本紀)(世家)   明治書院

 〈中国〉中国史学要籍叢刊 左傳 上・下 上海古籍出版社

※最後に、ここに記すのはあくまでも私見である。