空のなごり

経験、思ったこと、共感できることなど書いてみました。

4.8 春秋左氏伝 美しさの裏側(夏姫の場合)

※4から始まるものは春秋左氏伝について書きます。

 

春秋の歴史の中で有名な女性といえば夏姫(かき)である。

名前の由来は、夏姓の男性に嫁いだ姫姓の女性という意味である。

なお、呉の夫差の美人妻で有名な西施は春秋末期の人だが、左氏伝には記載はない。

 

夏姫は近世では小説のモデルになり、妖婦のようなイメージで表現されている。実際、彼女の行動履歴を見ると「妖婦」と言えなくもないが、それは(私は女性なので)男性側の言い分のような気がする。彼女のように男性遍歴が多い人は昔から現世まで多数居て、正直、誰しも身近な女性に似た人が思いつくだろう。だから「妖婦」というのは言い過ぎで、男性に対してルーズと言う方がよほど彼女に合っていると思う。

春秋左氏伝中、結構男性関係が奔放ではないか?と思える女性はほかにも数名いるのだが、彼女だけが抜きんでて目立つのは、相手の男への影響が甚だしさからだろう。しかも、彼女にはダメージが全くない上、殺人行為が行われていても、気に留めない鈍感さがあるところが特筆すべき点だろう。

 

〇春秋左氏伝における記述

宣公九年(600BC)

 陳の霊公、大夫の孔寧、儀行父の3人は、夏御叔の妻である夏姫と密通していた。そして3人は朝廷で(密通中にもらった)彼女の肌着を互いに見せあいこしてふざけあっていた。それを洩冶(せつや)が注意したところ、大夫の二人は霊公が制止しないことをいいことに洩冶を殺してしまった。

 

宣公十年(599BC)

 夏姫のいる夏邸で霊公、孔寧、儀行父の3人は宴に参加していた。そこで、霊公は儀行父に「夏姫の子の夏徴舒(かちょうじょ)はお前に似てないか」と言い、儀行父は霊公に「あなたに似ていますよ」と言った。その会話を聞いた夏徴舒は憤慨し、宴を終えて帰る霊公を厩の陰から矢で射って殺した。

霊公が殺されたのは、夏姫との密通話題のせいだと分かった孔寧と儀行父は楚に逃げた。

 

宣公十一年(598BC)

 (孔寧、儀行父が逃げ込んだ)楚の荘王は、内乱の起きた陳に攻め込み、霊公を殺した理由で夏徴舒を討ち、殺した。その時、陳の領土すべてを取ったことから、家臣の申叔時に咎められ、陳を再興するために、晋にいた陳の公子を陳の君主をして戻し、成公とした。そして孔寧、儀行父も陳に戻った。

 陳に攻め入った際、夏姫を気に入り、楚の荘王は後宮に入れようと考えたが、申公巫臣(しんこうふしん)に「陳の霊公が殺された復讐として諸侯を集めて攻めたのに、今回陳の内乱の原因である夏姫を娶れば、他の国に示しがつきませんよ」とたしなめられ、諦めた。すると子反が「自分が夏姫をもらう」と言い出したので、再び巫臣が「あの女のせいでどれだけの男が死んだのですか。そんな危険な女を娶ったらまともな死にざまはできません。他にも美人はいます」と言われ、子反も諦めた。

 結局夏姫は連尹(れんいん…楚の官職)であった襄老(じょうろう)の妻となった。

 

宣公十二年(597BC)

 陳の霊公の葬儀が行われる。

 楚と晋の戦いにおいて、(夏姫の夫となっていた)襄老が戦死する。

 

成公二年(589BC)

 夏姫は夫の襄老亡き後、その子の黒要から妻となるよう迫られていた。

 申公巫臣は夏姫と結婚したいと考え、彼女に「鄭に帰りなさい。私が妻に迎えるから」と告げ、結婚の準備を整えるため、こっそり鄭の襄公から婚儀の許可をもらう。そして彼女が鄭に帰られるよう、鄭から「夫であった襄老の遺骸を(晋から)取り戻すから、一度鄭に帰るように」と連絡させた。

 夏姫は「鄭から帰国の要請があったので、鄭に帰ります」と楚の荘王に告げるが、荘王は不審に思い、巫臣に相談する。すると彼は「(晋と仲の良い)鄭を利用して(昨年戦った)晋から襄老の亡骸と人質を取り戻すチャンスですから、いいと思います」と答えた。そこで、夏姫は鄭に帰ることになったのだった。

 夏姫は帰り際、見送りの者に「元夫の亡骸が戻ってこない限り、楚には帰りませんからね」と言った。その裏で申公巫臣は鄭の襄公から夏姫との婚姻の許可をもらっていた。

 このころ、斉は晋に攻められていたので、楚に救援を依頼していた。荘公は申公巫臣を斉に援軍の使者として向かわせることに決めた。

 さて、斉に使者として向かっていた巫臣だったが、その姿を目撃した申叔跪(しんしゅくき)は「まるで誰かの妻を寝取りに行くようなウキウキした様子」を感じ、不審に思う。

 案の定、巫臣は斉に使者として向かわず、部下を行かせ、自ら鄭へ行き、夏姫を迎えると晋へ行き、邢の大夫に任命された。

 

成公七年(584BC)

 巫臣に恨みをもっていた楚の子反や子重は巫臣の一族と黒要を殺した。

 それを知った巫臣は怒り、晋の景公の許可を得て呉へ向かい、呉の寿夢に知識を与えた。後に呉は勢力を付けて楚を攻めるようになる。

 

 

〇夏姫に関わった男性の運命

 夏御叔(最初の夫)…不明だが、病死であろう。

 陳の霊公(浮気相手)…夏徴舒(夏姫の子)に殺される。

 孔寧、儀行父(浮気相手、陳の家臣)…朝廷でのふるまいを注意した洩冶を殺害、国を一時的に追われる。

 襄老(二番目の夫)…晋との戦争中に戦死

 黒要(襄老の子、夏姫と密通しようとする)…巫臣を恨んだ子反らに殺される。

 申公巫臣(三番目の夫)…親族を子反らに殺される。

 最初の夫の状況がはっきりしないが、生きている間にほかの男と浮気されているので、いい状況ではなかっただろうと想像する。

 彼女に関わって死亡した者は4人以上。

 この流れから見て、出会った男を不幸にする女となってしまっているのだが、彼女は亡くなった後までも男を不幸にする女としてのレッテルを貼られている。

 

 昭公二十八年(514BC)から

 晋の叔向が妻をめとることになり、その妻というのが、巫臣と夏姫の間の娘だった。叔向の母は「あの女(夏姫)は、兄(鄭の霊公)が若くして殺されたことで、天から美を与えられて世の中に災いをもたらすようにしたもの、その血を受け継ぐ娘と結ばれたら、うちの羊舌(ようぜつ…叔向の家)家が滅びます」と忠告する。結局君主の意向で叔向はその問題の娘と結婚することとなり、伯石が産まれる。予言どおり、伯石は問題を起こして殺されることとなり、羊舌一族は滅亡するのだった。

 

 叔向は賢者であり、晋は彼のアドバイスでいい状態を保つのだが(もちろん他にも名臣はいるが)そんな一族を夏姫の血が滅ぼすというのは怖い話だ。この逸話は、後世の人に美女には気を付けなさいという戒めのために作られたのだろう 。

 叔向の母は「美しさは大きな災いを呼ぶ」と忠告し、以下のセリフを加える。

 夫有尤物 足以移人 苟非徳義 則必有禍

 →美に秀で、人の心を捕える者は、仁徳の厚い人でなければ、必ず禍があるもの

 

 乱世の中、欲望のままに生きる権力者が多くなると、美女というものは奪い合う対象になる。そして美女の夫というのは殺される危険性を孕むということになる。危険を回避したければ、美女にはかかわらないのが賢明なのだ。

 誰でも美しくなれる現在…ここまで美が危険性を孕むとは想像できないが、世の中の流れ如何で美は死と隣り合わせとなるのだろう。

 

〇申公巫臣について

 申公というのは申という楚の中に併合された小国の領主という意味ではないかと考える。資料がないのではっきりしないが、他の併合された小国も同様の表現がされているためだ。巫臣というのは名前なのだろう。楚の荘王の時にご意見係のような位置づけで彼は登場している。特段有能か分からないが、他の自己保身の強い家臣の中では比較的理性的な臣下のようである。本件の夏姫に関して、彼は自己中で彼女の色気に迷い、彼女のために楚での身分を捨て、晋に渡った男として記載されている。

 しかし、本当に彼の目的は夏姫だったのだろうか?

巫臣は楚の荘王に仕えていたが、彼が夏姫を伴って去った後は楚の共王に変わっている。王が変わると部下も変わるので、新しい共王のもとでは重用されないと考えて去ったとも考えられる。

 また、当時、楚は晋と覇権争いをしており、間に挟まれた衛や鄭はどっちにもいい顔をしつつも、領土を削られたり、無理難題を言われたりして苦労していた。

 夏姫は鄭の姫君である。当時の襄公の腹違いの妹となる。鄭とすれば、陳の君主や楚の荘王が気に入り、妻にしたいと思う夏姫は利用価値の高い女だったのではないかと思う。

 鄭はもともと晋側についていたが、楚が南方から攻めてきて、楚にもいい顔をしなければならず、微妙な立ち位置にいた。

 申公巫臣が鄭の襄公に口利きをして夏姫を得るという話になっているが、もしかしたら、実態は、鄭から巫臣に話をしたのではないかとも考えられるのである。

 晋につけば楚につけこまれるのだから、楚の力を削ぐ方法として、有能な巫臣を夏姫の夫とすることで、楚から離反させることを考案したのではないかと考える。

 巫臣は始め、移動先として斉を考えたが、戦に負けたばかりの状態だったので、晋を選び、晋の臣下となっている。

 その後、呉に知恵を授け、楚を背後から攻めるようにしているのだ。

 結果的に楚はマイナスの状況となっている。鄭の夏姫を使った策略は成功したのだ。

 夏姫に惚れた男たちの振り回された事件というより、背後に国家が糸を引いていると考える方がしっくりくるのだが…どうだろうか。

 美女は中国の歴史上、戦略に使われることもある材料だ。英雄色を好むと言われるが、単純に色を好むだけだと、安易に策にはまりやすい。美女に注意しようというのは正しい忠告なのだろう。

 

〇洩冶の注意はなぜいけなかったのか。

 陳の宮中で、霊公や孔寧、儀行父が夏姫の下着を見せあってふざけている姿を見て、大夫である洩冶は霊公に注意をする。

 これをよく思わなかった孔寧と儀行父は霊公が反対しないのをいいことに、洩冶を殺すのだが、この洩冶の行為について、孔子

「詩云、民之多僻、無自立辟、其洩冶之謂乎」

 というコメントを残している。

 詩とは詩経のことで、大雅「板」の第六章に「民之多僻、無自立辟」が載る。

 大雅とは、周王朝における祭事を行う際の最後を締めくくる歌であり、重要で高貴な歌となっているようだ。その中に孔子が指摘した一文が出てくる。

直訳は「国民の中で悪いことがはびこっている時に、国を治めるものが勝手に厳しく取り締まってはいけない」となっている。

今回の洩冶の行為については、宮廷で君主自ら乱れたことを行い、その家臣もそれに乗じて悪いことをしている中で、一人、正しいことを言うことは辞めた方がいい…というものだ。

孔子ってもっと正しいことを求めるのではないの?と思っていると、こういう言動もあり、悪いことをはびこっている時はほっときなさい…というある意味、正しいことより身を守ることを勧める意外な一面を見ることができる。上手に世の中を渡っていきなさいということか。

 

〇まとめ

 夏姫はそんなに魅力的だったのか?という疑問が湧くが、鄭は貿易立国で商人が多く、美女を産出する国としても有名だった。彼女もそれなりに美しい人だったのだろう。何人もの男性を篭絡し、関係する人が殺害され、50代後半?で出産もしている。稀世の妖婦として春秋時代に名前を残した。

 彼女の存在というものは、男主体の乱世の歴史の中、権力も金もないのに、ただその美貌だけで、国を左右できたというすごい能力があることを歴史上証明した。いやはや、美女の笑顔だけで、一族が滅んだりするんだから、怖い話である。

 私は、もし、この春秋時代で誰に産まれたいかと言われたら、夏姫の侍女を希望する。身の危険もなく、豪華な生活ができて、諸国を旅することができる。やることと行ったら、彼女のお世話だけ。そして彼女に翻弄される男を見つつ、歴史の流れなんて、こんなことで決まってしまうのかと妙に冷めた目線で世の中を達観したような気分になるんだろう。こっそり「夏姫侍女日記」なるものを記して悦に浸っていたりして。

 中国の歴史は英雄だけの歴史ではなく、非力な女性の能力が背後で歴史を動かしていたのだ。

河南省 新鄭市 鄭王陵博物館

鄭王陵博物館内の鐘(当時の楽器)

15年ほど前に新鄭市へ旅した。小さな市街地の中、一番きれいに整備されていた鄭王陵博物館。受付した時、担当の女性はお昼ご飯を食べている途中だったが、快く中を見せてくれた。当時は生身の馬、人、馬車などなどすべて埋めていた。これでも春秋時代の小国の王の墓である。鄭は商人が多くおり、音楽も発達した。綺麗な鐘の音とともに美女が躍り、宴会が行われていたという。夏姫もこのような生活をしていたのだろう。


※文中に表記できない繁体字簡体字は日本で通常使われている漢字を当てています。

※参考文献

 〈日本〉全釈漢文大系 春秋左氏伝 上・中・下 集英社

     春秋左氏伝 上・中・下 小倉芳彦訳 岩波文庫

     漢詩選2 詩経 上・下 高田眞治 集英社

 〈中国〉中国史学要籍叢刊 左傳 上・下 上海古籍出版社

※最後に、ここに記すのはあくまでも私見である。