空のなごり

経験、思ったこと、共感できることなど書いてみました。

4.5 春秋左氏伝 周王朝の寵臣(虢公の場合)

※4から始まるものは春秋左氏伝について書きます。

 

周王朝の初代は武王で、春秋左氏伝はその武王から数えて第13代目の平王の時代から始まっている。今回は、その平王の後の第14代目の桓王、そして第15代目の恵王に気に入られていた虢公について記述したい。

虢公は国が虢(かく)、公は爵位を表している。春秋左氏伝に出てくる虢公は、名前がはっきりしている人が2名いるのだが、実際は3名以上いるのでは?と考えている。今回は虢公として特に個人の区別はせずに論じたい。

また、注釈によれば、虢国は東西南北に分かれているとあるが、左氏伝の記述には区別がなく、現在その区別をして検討するのが難しい。今回焦点を当てる虢国は西虢、北虢となるようだが、その詳細は省くことにする。一応、虢国は現在の中華人民共和国山西省平陸県あたりにあったようだ。

 

〇春秋左氏伝より(虢に関する記述)

722BC 隠公元年

 鄭と衛の戦いの際、鄭は周王と虢の軍と共に衛を攻めた。

720BC 隠公3年

 周の平王が亡くなる。その後を継いだ桓王は、平王時代に卿士(王卿の執政者)であった鄭伯(鄭は国名、伯は爵位、当時は荘公)を差し置いて虢公にも卿士の官位を与えた。

実は、平王の時も虢公に卿士の官位を与えようとし、鄭の荘公は周の平王を恨んだ。そこで、鄭と周の間で人質交換をしたという過去がある。

しかし、結局は平王の後の桓王の時に虢公を卿士にしたので、鄭の荘公は怒り、周の土地を襲撃し、稲を勝手に刈り取った。

718BC 隠公5年

 晋の曲沃(きょくよく)の荘伯が桓王から離反したので、虢公が王命により攻め、荘伯を討ち、哀侯を立てた。

 ※晋はもともと一国であったが、世継ぎの争いで、晋侯の分家が曲沃に別国を建ており、晋の国内に二君いる状態が続いていた。

712BC 隠公11年

 鄭伯は宋が国内に侵入したので、報復のため、虢公とともに宋を攻めて大破させた。

704BC 桓公8年

 曲沃の武公が晋の哀侯を滅ぼしたので、周王は虢仲(仲は名前)に命じて晋に哀侯の弟である緡(びん)を立てた。

702BC 桓公10年

 虢仲が桓王に自分の部下(周王朝の執政下における虢公の部下。虢国内部の部下ではない)である大夫の詹父(せんぼ)を中傷した。しかし詹父が反論し、それが正しかったので、逆に周の軍に攻められ、虢仲は虞国に逃げた。

678BC 荘公16年

 周の僖王(きおう)は虢公を派して曲沃伯を晋侯に立てた。これを武公という。

676BC 荘公18年

 周の恵王に虢公、晋侯が朝見した。その際、周王は宴会を催し、礼酒と引き出物があったが、その内容が虢公、晋侯ともに同じものであり、玉5対、馬3匹であった。虢公と晋侯は官位が異なるため、同列に扱ってはいけないのに、同じ礼物を与えている。

 夏に虢公、晋侯、鄭伯、原の荘公が恵王のために陳に后を迎えに行った。

674BC 荘公20年

 周王である恵王と異母弟の子頽(したい)の内紛があり、子頽が周王の座を奪ったものの、音楽や舞を楽しむばかりだったので、恵王を鄭に呼び寄せていた鄭伯は、虢公に子頽の態度を批判し、一緒に恵王を周王に戻す話を持ち掛けた。虢公はそれに同意する。

673BC 荘公21年

 鄭伯と虢公が王城を攻めて子頽を殺し、恵王を再度即位させた。鄭伯(厲公:れいこう)は恵王のために宝物と音楽を揃え、恵王は鄭伯に国土を与えた。原伯(原の荘公)は批判して「結局鄭伯も子頽と同じことをやっているじゃないか。お咎めにあうさ」と言った。結局、鄭伯(厲公)は5月亡くなった。

 恵王はお礼のために虢公に会うため、虢へ巡行したところ、虢公は王宮を急遽造営して迎えた。そのお礼に京王は虢公に酒泉の地を与えた。そして鄭伯(厲公の後を継いだ文公)が恵王をもてなしたところ、王后に与える鏡を与えられた。また、虢公が何か器がほしいとねだると、爵(高貴な器である杯)を与えた。

 これを見て、鄭の文公は恵王に対して憎むようになった。

 この後、冬に虢から恵王は周の王宮に帰っている。

668BC 荘公26年

 秋と冬の2回、虢は晋へ軍を侵入させた。

667BC 荘公27年

 晋侯(献公)が虢を攻めようと考えるが、家臣の士蔿(しい)が「まだ攻める時期ではありません。虢公は驕っているので、そのうち人望を失うでしょうから、それまで待ちましょう」と言った。

664BC 荘公30年

 恵王は虢公に、自分に背いた樊皮(はんぴ)を討つよう命じた。虢公は樊に攻め入って、逃げていた樊皮を捕らえて周王宮に連れ帰った。

662BC 荘公32年

 秋7月、神が莘(しん)の地(虢の土地)に降り立った。恵王は臣下の内史過に神を見に行くよう命令した。内史過は行く道中で、虢公がその神に自国の幸を願っているのを目撃する。そして「虢はきっと滅びる。残虐なのに神に祈るなんて」と呆れて恵王のもとに戻っていった。

 この神は莘に6か月とどまった。その間、虢公は祝応、宗区、史嚚(しぎん)に神を祭らせた。すると神は「虢に国土を与えよう」と告げた。

660BC 閔公2年

 春、虢公は犬戎(けんじゅう:異国の賊)を渭汭(いぜい)で破る。虢の大夫である舟之僑(しゅうしきょう)は「身に徳もないのに福をうけるなんて、きっと将来災いがあるはずだ」と言い、虢を去り、晋へ逃げた。

658BC 僖公2年

 晋は虢を攻め、下陽を滅ぼした。

 逆に虢は戎を桑田で破った。

 晋の家臣卜偃(ぼくえん)は「下陽を失ったのに、戦果を上げるなんて、国が亡びるだろう」と予言した。

655BC 僖公5年

 晋侯は虢の隣国虞を利用して虢を攻めた。虢の都上陽を包囲し、冬の12月、とうとう虢滅ぼした。虢公醜は周の王都に逃げた。晋は虢を滅ぼしたついでに虞も滅ぼした。

653BC 僖公7年

 恵王卒す。

 

周王朝と虢との関係

 虢は爵位でいうと「公爵」である。

 また、虢公の祖は、周王朝の祖である文王の弟(虢仲、虢叔)であり、周王朝の血筋。そして虢の領地は王都近くにあり、歴代周王と密接な関係にあったと推測できる。実際、虢公は卿士の身分となり、周王の命令を諸侯に伝えたり、周王と共に戦ったり、周王朝の内紛を制圧したりと王朝と共に動いている。桓王、恵王の信頼も厚かった証だろう。

 なお、虢公が記載される722BCは、周王朝が成立したと考えられている1020BCから約300年経過している。この722BCは平王の時代で、その父幽王の妻、褒姒(ほうじ)という笑わない美女等により王朝の権威が失墜し、内戦が勃発して王朝の領土が減り、東周時代となっていた。都は現在の洛陽。ほとんど周王朝の威厳は無く、その権威は形骸化していた。

 そのため、720BCの鄭伯の桓王に対する恨み、676BCの虢公と晋侯への扱い、673BCの鄭伯と虢公の扱いに対する鄭伯の恨みは、周王自身に権威がないからこそ発生したものだろう。

 実際、爵位の順は、公、侯、伯、子、男であり、

 大国の扱いは公と侯の国、次国の扱いは伯、小国の扱いは子と男の国となっている。

 公爵は虢、侯爵は晋、伯爵は鄭であり、本来、鄭は虢が優遇されていても文句は言えない立場なのに堂々と不満な態度を表している。また虢と晋を同列に扱い、格下である晋を優遇している。これらは、虢に比べて鄭や晋の領土と戦力が上だからだろうと推測される。

また違う視点から見れば、虢の国土はひどく小さく、例え爵位は高くとも、実力は無いとしか言いようがない。つまり、晋や鄭から格下に見られても仕方がないと思われる。

最終的に、実力をつけてきた晋は虢を攻め滅ぼそうともくろむことになる。

〇晋の事情

 晋は、周王朝を建国した武王の次男である叔虞(しゅくぐ)を祖とする。叔虞は唐という国を与えられ、その後、唐は晋という名前に変わった。

 745BC、当時の晋侯は自身の伯父の桓叔を曲沃の地に封じた。桓叔はそこで善政をしいたので、国民に慕われ、晋の一地方でありながら、本家を上回る支持と財を成すことになる。

 結果、晋は都の翼と地方の曲沃に分裂し、国内が混乱し始める。そこに周王朝の指示で仲裁に入るのが虢公となる。

 最終的に678BC、曲沃の武公が晋を統一して収まる時、虢公が協力している。

 晋はその年から安定した国家へと変貌する。武公亡き後、献公が即位し、力を持ち始める。献公は有名な重耳(ちょうじ、将来の覇者である晋の文公)の父である。冷酷な人間で身内を殺すことにすらためらいはない人物だ。

 当時、斉の桓公が覇者となり、周王朝を支えながら、各国を従わせていた頃である。晋の献公も晋の国土の広さから、斉の桓公のような力を付けたいと望んだであろう。献公は晋の近くの異民族(驪戎:りじゅう)を攻めたり、君主の座を脅かす他の公子を殺したりしていった。その際、一部の公子は虢国に逃亡している。

 虢国は晋国の南西にある小さい国家である。直接国境を接している虞国を挟んで南側に位置している。献公はこの虢国が目障りだった。

 しかし、虢公は周の恵王の覚えめでたく、戦も強い。献公も簡単には滅ぼせないと考えただろう。

〇鄭の事情

 鄭は左氏伝の中で一番新しい国である。鄭の祖は、周の第10代厲王の末子で名は友。806BCに鄭に封じられ、桓公となった。その後、周の幽王の代に政治が乱れ(前述)、鄭の桓公は将来を心配し、周の太史である伯陽にどうすればいいか尋ねる。なお、この太史というのは、国家行事などを執り行う官である。この伯陽は、乱れた周の王政の中でも常識のある知識人のようだ。また、この時、桓公自身も司徒の位(今でいうところの、文部大臣という感じ)に就いている。

 史記の世家の記述によれば、鄭の桓公の心配に、伯陽はこう答える。

「洛水の東、黄河と済水の南方の地へお逃げなさい。その地の持ち主の虢や鄶(かい)には頼んでみたらその地をもらえますよ。虢も鄶も国君が横暴なので国民が懐いていないし、それにあなたのご身分が司徒ですから、喜んで譲るでしょう」

 桓公は、もっと南に行きたいと望んだが、それは伯陽が反対した。その地は楚であり、そのうち楚が強くなるだろうから、鄭が危険になるということだった。

 桓公は周がこのまま衰えたら、どこの国が強くなるか伯陽に尋ねる。すると、伯陽は

「斉、秦、晋、楚」の四か国を答えた。

 理由はその祖が皆有徳者であり、周とは関連はあっても、直接の系統ではないから。

晋のみ周との血縁関係があるが、土地の利があることを理由としている。

 桓公は伯陽のアドバイスに従い、虢と鄶に土地を譲ってもらい、現在の河南省新鄭市に新しい都を作った。

 鄭は周王とは近い間柄で、高位だったことが見て取れる。しかし、後の荘公の時代に、虢公を桓王が優遇したため、周王朝からだんだん遠ざかり、歯向かうことすらし始めるようになった。

〇虞の攻防

 虞は周の文王の伯父にあたる虞仲を祖とする小さい国である。虢公とは同姓となるが、虢とは違って周王朝における活躍にめぼしいものはない。

 この虞には宮之奇(きゅうしき)という賢人がいた。

 晋の献公は、虢を滅ぼすためには虞を利用することを進言した荀息(じゅんそく)の策を取りいれることにした。荀息は名馬と宝石を虞公に与えれば簡単に利用できるという。賢人の宮之奇がいても、彼は臆病である上に虞公に近い存在なので苦言は聞き入れられないだろうと予測。実際その予測は当たってしまう。

 虞はこの記述以外でも、虢と並んで欲が深く国民を困らせる国家として紹介されている。

 655BC、晋が虞に、虢を攻めるために協力しろと再び言ってきた際、宮之奇は虞公に強く諫言した。しかし公は聞き入れず、宮之奇は虞の滅亡を予測し、国を去っている。

結果、晋は虢を滅ぼすと虞も一緒に滅ぼし、領土を広げたのである。

 宮之奇の諫言の中のセリフで面白いものがあるので取り上げてみる。

 「虢虞之表也。虢亡虞必従之。…(略)…諺所謂輔車相依。唇亡歯寒者、其虞虢之謂也」

 →虢と虞は(現代風に言えば)表裏一体の関係です。虢が滅亡すれば虞も同様のことになります。…諺で言うところの、「車輪と輔がなければ車ではない、唇が無くなれば、歯が寒くなる」というのは虞と虢のことなのです。

 なお、輔というのは、荷台の側面に立てている板のことである。

 「臣聞之、鬼神非人実親。惟徳是依。故周書曰、皇天無親。惟徳是輔。又曰、黍稷非馨、明徳惟馨。又曰、民不易物。惟徳維物。如是則日徳民不和、神不享矣。神所憑依、将在徳 矣。」

 →(虞公は神を大切に祀っているのだから、国は滅びないと言うが)臣の私が聞くところでは、神は人そのものに親しむのではなく、ただ仁徳に親しむと。だから周書(現代は書経尚書という名前)に「天の神に親しみの感情は無く、ただ仁徳にのみ助けを与える」と書かれているのです。また、他にも「お供え物に相応しいのは、黍などの穀物ではなく、ただ人の仁徳である」とも言われていますし、「人民に対して制度を以てするのではなく、徳を以てする」とも言われています。つまり、徳が無ければ民は懐かない上に神も(沢山祈ったからといって)受けてくれないのです。神が憑依するところは徳のある人のみなのです。(だから、神を大切に祀っていても、徳がなければ、滅びるのです)

 ここまで必死に宮之奇が説得したが、虞公には響かなかったのだろう。賢人がいても君主が愚かだといつの時代もその国は滅んでしまうものだ。

〇虢の事情

 虢公は周王に重用されていたのみならず、戦も上手だったようである。

 しかし、晋の家臣の言葉によれば、虢は国民に慕われておらず、周王に重用されることや、国土を広げることばかり気にし、戦で疲弊した国民を顧みることはなかったようだ。

 そのような態度は随所に見える。

 658BCで虢は晋に下陽という街を奪われたというのに、同年戎を攻めている。晋の卜偃(ぼくえん)が虢公のことを「是天奪之鑒、而益其疾也。必易晋而不撫其民矣」(現代語訳:天は虢公が自分を見つめ返す鏡を奪い、その悪い病を悪化させた。虢公は晋を軽んじ、自国の民を愛撫しないだろうよ)と言っている。

 655BCで、虢にはびこる怪しげな童謡を卜偃が晋侯に告げている。その童謡とは

「丙之晨、龍尾伏辰。均服振振、取虢之旗。鶉之賁賁、天策焞焞、火中成軍。虢公其奔」

 →丙の日の早朝、龍尾の星が夜空に出なくなる頃、軍服を着た人が覇気強く、ついに虢の旗を奪う。鶉火星の光が輝き始め、西空の天策星が弱くなり、鶉火星が強い時に軍が勝つ。そして虢公は逃げ出すだろう

 これは虢国滅亡の具体的な日時を示した童謡だ。実際ここまではっきりと歌われていたのか疑問だが、民心というのは戦に敏感なので、それなりに危険は察知していただろうし、虢公に対する不平不満もあり、民衆が皮肉を込めて歌を作ったのではないかと考えられる。

 実際、長い中国史を見ると、滅亡近くになると怪しげな歌がはびこるので、もしかしたら、歴史書記述する際の、ある種のおきまりパターンなのかもしれない。

 ただ、このような童謡が国民に流れている事実があるのならば、虢公はひどい君主だったのだろう。

〇神??

 662BC 秋七月 有神降于莘

 →莘という虢の地に神が降りた。

 神という存在に懐疑的な観点から見れば、この左氏伝の内容は不可解な話である。

 中国の注釈では、この神を「有神声以接人」とあり、神がかりにあった(神が憑りついて人間の口から予言するような)人がいたということになっている。

 神は周の全部の民のために現れたのだろうが(だから周王は内史過を派遣させた)、虢公は自分の領地に降り立ったので、必死に自分の欲(国土が欲しい)と祈っていた。ここが尊敬に値しない行動と思われるが、結局神は「虢に土地を与える」と告げているのだ。結果土地どころか、虢は滅亡しているのだが。神とはなんだったのだろう。

 虢公の態度を見た周王の臣下史嚚(しぎん)は、虢公について

「吾聞之、国将興聴於民。将亡聴於神。神聡明正直而壹者也。依人而行。虢多涼徳。其何土之能得」

 →私はこういうことを聞いている「国がまさに発展する時は民に聴く。国がまさに亡ぶ時は神に聴く」と。神は賢く正直で唯一の者。願いはその人の徳に応じて叶える。虢は不徳が多い。それなのにどうして土地なんてもらえようか

というわけで、虢公は神から「土地与えるよ」と言われたが、もらえないだろうと予測した。

科学的な観点から見れば、その神がうさんくさいと思うのだが、まあ、史嚚の言葉が正しいことは歴史が証明している。

 

 

〇まとめ

 虢が滅ぶのは周建国から約365年後だ。虢は周に近い血筋の国である。他に近い血筋では鄭、魯、管、蔡、衛、晋。晋以外は君主とその跡継ぎによる内乱、近隣諸国との戦争で疲弊し、力を無くしていく。周王が頼る国は覇王となった斉、その後は晋のみだ。晋も、文公が覇者となった後は衰退する一方であった。周王朝が衰退するきっかけは左氏伝の始まりより前の話だ。もう形骸化し生きながらえていたが、虢が滅び、その他の国も覇権争いに興じ、周王朝を貴ぶ態度は失われてしまった。

 虢の繁栄と滅亡は周の最後の力のきらめきの一つだったような気がする。

 晋の文公の後、楚が力を増し、呉が突然表舞台に飛び出し、中国の南方の地域が力をつけていく。後、戦国の世となれば、晋が魏、趙、韓に分裂し、完全に周王朝とは縁のない国となり、秦が強大となる。

 鄭の桓公に伯陽が言った「周が衰退する時、強くなるのは斉、晋、楚、秦です」と言ったのは正しかった。この文章が書かれた時がまだ春秋の時代であれば、先見の目があったと思う。理由に周王朝と縁故のない国であり、徳で国を興した所としたのも面白い。国というのは栄枯盛衰があるのは十分分かっているが、それが明白な結果となって戦国の時代に実際そのとおりになっているのは興味深い。もちろん、斉ほか三国も結局は滅ぶのだが。永遠には続かないのだ。悲しいことに。

 左氏伝を読むと国君の徳の大切さを説くが…果たして徳があれば国は永遠に続くのだろうか?私は疑問に思う。左丘明は徳に万能性を期待していたのだろうか?徳に関わらずいつか必ず滅びると考えていたのでは?

 

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河南省鄭州市 黄河遊覧区

 

※文中に表記できない繁体字簡体字は日本で通常使われている漢字を当てています。

※参考文献

 〈日本〉全釈漢文大系 春秋左氏伝 上・中・下 集英社

     同      礼記    上・中・下 集英社

     春秋左氏伝 上・中・下 小倉芳彦訳 岩波文庫

     史記世家  上・中・下 小川環樹他 岩波文庫

     新釈漢文大系 史記(本紀)(世家)   明治書院

 〈中国〉中国史学要籍叢刊 左傳 上・下 上海古籍出版社

※最後に、ここに記すのはあくまでも私見である。