空のなごり

経験、思ったこと、共感できることなど書いてみました。

4.2 春秋左氏伝 傾国の美女(息嬀の場合)

※4から始まるものは春秋左氏伝について書きます。

 

中国の歴史上登場する美女というのは極端な人が多い。特に傾国の美女と言われる女性は皇帝の私生活や政治を乱れさせ、国を衰退に追いやってしまうことが多い。その中でもこの息嬀(そくぎ)は珍しくつつましい女性である。

ちなみに息嬀というのは「息」の国に嫁いだ嬀姓の国(陳国)のお姫様という意味である。

 

左氏伝における彼女の話を紹介。

紀元前684年

息嬀は、陳国から息国へ嫁ぐことになった。

息国へ行く途中で彼女は蔡国に寄ることになってしまう。蔡国の王である哀候は彼女の姉が自分の妻であることを理由に寄らせたのだ。多分、哀候は息嬀が美女であること知っていたのだろう。

息嬀は断ることができず、嫁入り前に姉のいる国へ行き泊まることにした。しかしそこで哀候が息嬀に無礼を働いた。

息嬀は息国に到着した後、夫となる息候に蔡国の哀候の無礼を言ったところ、息候は怒り、楚国の文王に蔡国を討つ話を持ち掛ける。

「私の国に楚の軍を向かわせて下さい。私は蔡国に援軍を乞います。そしたら楚の軍で蔡を討って下さい」

そこで、その年の9月、楚軍は蔡に攻め入り、蔡国の哀候献舞を生け捕り、楚へ連れて帰ったのだった。息候の思惑通り事は運んだのである。

紀元前680年

楚に囚われの身となっていた哀候は、息候を陥れようと楚の文王に「息候の夫人は美人ですよ」と話し、文王の興味をそそらせた。息嬀が気になった文王は息に行って宴会を催し、それに参加した息候をその場で殺した。そして宮中から息嬀を無理やり連れ帰った。とうとう息国は滅んだのである。

息嬀は楚の文王の妻となり、堵敖(とごう)、熊惲(ゆううん、のちの成王)の二人の子を産んだ。文王は息嬀が楽しそうにしていない上、ろくに口も聞かないので、気になって息嬀に尋ねた「子供が二人も生まれたというのに、どうして冷たい態度なのか」すると息嬀は答えた。

「私は、一人の女性で二人の夫に仕えるような身となってしまいました。たとえ死ぬことはできなくても、口をきくなんてことができましょうか」

文王は彼女の言葉を聞いて、蔡の哀候が自分をそそのかして息国を滅ぼさせたことに気づき、息の仇として蔡を7月に攻めた。

紀元前675年

楚の文王死去。息嬀の息子である堵敖が後を継ぐが、揉めて、最終的に熊惲が成王となる。

紀元前666年

文王の弟の子元は未亡人となった息嬀のことが気になり、彼女のいる宮殿の隣に屋敷を作り、大きな音で音楽を流して舞を舞っていた。子元は息嬀に注目されたかったのだが、息嬀の侍女から「文夫人(息嬀のこと)は『子元様が舞っていた舞は文王様が戦の準備のために舞っていたものです。子元様は仇敵に対して舞を舞うのではなく、私に対して舞うなんて、どういうおつもりでしょう』と泣いておられます」と聞き、子元ははっとして「女性にそんなことを言われるなんて」と叫び、敵である鄭を秋に攻めに行った。しかし鄭の人の機転で、戦とはならず、引き返したのであった。

紀元前664年

子元は、息嬀のいる宮中に入り込み、王のような態度で暮らしていた。まだ成王が幼い時であり、政治が不安定になっていた。闘射師が子元を諫めたが、逆に子元に捕らえられてしまった。秋、内乱が起き、令尹であった子元が殺され、代わりに子文が令尹となった。

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華清池の蓮 傾国の美女繋がりで楊貴妃ゆかりの温泉地から

 

息嬀の話はここで終わる。彼女は権力者のせいで被害にあった可哀そうな女性という感じである。当時は女性は反抗できず、権力者の言うことは絶対で断ることはできなかったのだ。話の発端は哀候が彼女に無礼を働いたことから始まる。この「無礼」とは何だろう。左伝の原文では「止而見之弗賓」、つまり「留めて息嬀を見て賓客の扱いをせず」というのが直訳である。

てっきり、いやらしいことでもしたのかと思ったのだが、賓客の扱いをしなかったということから推察するに、単に顔を見たのではないかと思われる。昔の女性は夫となる人にしか本名や顔を見せないという風習があったと聞いているので、嫁入り前なのに、他の男性に顔をみられたのではないだろうか。それで哀候は彼女が美人だと確信できたのだろう。彼女も夫以外に顔を見られ、情けなく恥ずかしい思いをしたので、息候に「蔡候から無礼なことをされました」と伝えたのだと思う。

 

息の国については、この息嬀の問題が始まる前に面白い表現がある。これが左氏伝らしいところだ。

紀元前712年の内容に、鄭国と息国が言葉の行き違いがあり、息が鄭を討った。結局息が大敗した。君子はこのことから、息国がやがて亡びることを知り、こう言った。

不度徳不量力不親親不徴辞不察有罪犯五不イ(表記なし)而以伐人其喪師也不亦宜乎

【意味】徳を測らず、力を量らず、同姓を親しまず、約束を詳しく調べず、有罪を察せず、この五つの不善を犯した上に戦をする、その軍を失うのも当然ではないか。

君子とは、春秋であるから孔子のことであろう。だが私は、これは孔子の名を借りた左丘明の予見、宿命感を説明ではないだろうかと思う。

私が春秋を読んだ感想で思うに、当時の国力の差については

   楚>>>鄭>陳、蔡>>>息

であり、息は身の程もわきまえず、大国楚を利用して格上の蔡を攻めさせ、その王を楚の囚われの身にさせたのだ。しかも過去にも、同族(姫姓)の鄭に対して約束を無視して戦をしている有様だ。そんなことを平気でする息候だから、息嬀の美貌をきっかけに滅亡する運命になってしまったのである。

 

蔡については、今回の息嬀の話の中で楚に攻められた際(紀元前680年)、君子のコメントがある。

君子曰、商書所謂悪之易也、如火之燎于原、不可郷邇、其猶可撲滅者、其如蔡哀候乎。

【意味】君子が言うには、「書経に言うところの、『悪がはびこるのは火が野原に広がるようだ。向かって近づくことはできないのに完全に火を消すことができようか』とは、まさに蔡の哀候のことだ。

君子のセリフは書経の盤庚上に出ているもので、王である盤庚が殷の民に注意する言葉から出てくる。悪いことは簡単に流行するので、最初に消すべき。広がってしまったら取り返しがつかない。ということ。蔡の哀候は陳から嫁いできた女性(息嬀)に軽い気持ちでちょっかいを出しただけだっただろう。だが、それは息国や一人の女性を馬鹿にした行為であり、それが引いては自分の身に降りかかってしまったのだ。悪いことはしてはならないという忠告なのだろう。最終的に哀候は囚われの身のまま楚で亡くなってしまう。

 

楚の子元について。

この女ったらしの王弟について君子のコメントはない。正直、兄の王の愛妻に、兄が亡くなった後、手を出しているのも問題だと思うのだが。

ただ、私は春秋戦国を通して、楚国は女性や金目の物の問題が多いように感じる。多分、他の国も同様なことがあると思うのだが、ひどく目立つのだ。楚はもともと殷より前の時代にある祝融の身分の人の血筋である。周王朝とはゆかりはない。また殷の時代の有名な人の血筋でもない。身分も低い扱いである。それゆえに、周王朝から遠い蛮地に土地をもらい受けた。だが、蛮地で発展し、大きくなるにつれ、周王朝から「王」の称号を無理やりもらい、態度も大きくなる。春秋が書かれた魯国は周王朝の血筋(祖は周公)のお家柄である。当然その国の歴史書を書く人、左丘明も魯という国に誇りを持っていただろう。それゆえに楚のような蛮地に対し、無意識に蔑視していたのではないかと疑ってしまう。こういう欲に正直な行為は慎むべき事柄であるのに、忠告もしないとは。「楚ならこういうことするからね」という意識が働いているとしか思えない。現代でも無意識のバイアスがあると言われるが、当時はもっと強かっただろう。こういう小さいところに人の無意識が出てくるのではないかと私は思ってしまうのだ。だからといって左丘明が差別主義者とは思わないが。当時、楚は礼儀なるものがなかったのかもしれない。

※文中に表記できない繁体字簡体字は日本で通常使われている漢字を当てています。

※参考文献

 〈日本〉全釈漢文大系 春秋左氏伝 上・中・下 集英社

     同      尚書          集英社

     春秋左氏伝 上・中・下 小倉芳彦訳 岩波文庫

     史記世家  上・中・下 小川環樹他 岩波文庫

 〈中国〉中国史学要籍叢刊 左傳 上・下 上海古籍出版社

※最後に、ここに記すのはあくまでも私見である。