空のなごり

経験、思ったこと、共感できることなど書いてみました。

4.1 春秋左氏伝について

※4から始まるものは春秋左氏伝について書きます。

私は中国古代史が好きで、昔からよく漢文を読んでいた。そしてある時から、すっかり春秋左氏伝のファンになってしまった。

はじめはたいして面白くもない歴史書だと思った。しかし、何度か読むにつれて、この作品を書いた左丘明の考えがなんとなく分かって来ると、共感を覚えて好きになってしまったのである。

それで、ブログを利用して、私なりの解釈や心に残る内容などを、素人目ではあるものの記してみることにした。

 

最初に、春秋について簡単な説明をする。(なお、参照にした文献は最後に記載)

春秋というのは中国の周の時代の前半(西暦紀元前722年から479年の間)の歴史書である。

周王朝は、建国直後、一つの帝国としてまとまりが良かったが、周の王が親族や功績のあった臣下に任せた地域がそれぞれ力をつけ始め国となり、軍を動かして覇を唱えるようになったため、群雄割拠の時代を迎えてしまった。周王は名ばかりとなり、各国の長が我が物顔に他国を攻め、滅ぼしたり、利用したりするようになったのである。

周の建国の王である武王の弟、周公が王から与えられた土地が魯であり、この魯が残した歴史書が春秋という。

そのため、歴史書とは言っても、魯から見た各国の動き、魯国内の政治が書かれており、年代記となっている。

日本の昔の知識人は春秋で勉強して儒学を習ったようだが、よく読んだなと感心してしまう。実際、楽しく読もうと思っても、「〇〇年〇月 ××があった」というような堅苦しい内容で、ぱっと読んで面白くないものである。

だが、この面白くもない文章の一言一句には裏の事情が込められており、それを知ることで、春秋の本来の意味、内容の価値、歴史に託したかった作者の想いが分かるのだ。

 

春秋には三つ種類があり、それを三伝と言い、それぞれ「公羊(くよう)伝」「穀梁(こくりょう)伝」「左氏(さし)伝」がある。

日本の本屋、図書館に行っても、実際「春秋左氏伝」しか置かれていない。私もそれにはびっくりした。多分、公羊伝も穀梁伝も日本には伝えられていると思うのだが…中国とは違って、左氏伝が好まれたため、左氏伝だけ残ったのではないかと思う。…まあ大学などの研究所には公羊、穀梁もあるのだろうが。

春秋の三伝の違いについて述べる

「公羊伝」とは

  本来口伝といって暗記して伝える歴史書であった。

  由来は、子夏(孔子の弟子)→公羊高→子平→子地→子敢→子壽→斉の人(この段階で初めて口伝から竹や布に記されたらしい)

  中国ではこの公羊伝が春秋の一番正しいものとしての認識が高く(後漢の時代から)、一番研究されていたようである。

 

「穀梁伝」とは

  由来は、子夏(孔子の弟子)→穀梁俶(穀梁氏はこの後数人続くため省略)→荀卿(荀子のこと)→浮丘伯(荀子の弟子)

  これは荀子がテキストとして使っていたといわれる春秋である。

  内容的には公羊伝とほぼ一緒

 

「左氏伝」とは

  孔子ではなく、左丘明(はっきりしないが、魯国の文官だったようだ)が著作したもの。別に「国語」の作者でもある。

  由来は、左丘明→曽申→呉起→呉期→〇〇(特殊漢字のため表記できず)→虞卿→荀卿(荀子のこと)

  途中、呉起がでてくるところがびっくりなのだが、これは楚の有名な軍師の呉起がかかわったのだろうか?

この後、前漢時、途切れるのだが、王奔の乱が起こった際、劉歆が宮殿の書庫に保管されていた左氏伝を発見し、注釈を加えて世に出した。

ただ、この事件のおかげで、左氏伝は正当な春秋ではない烙印を押され、中国での儒学研究の際はあまり重要視されていないようだ。

 

また、文面を見ると、「公羊伝」と「穀梁伝」はほぼ同一のもので、「左氏伝」は異質のものであると認められる。極端な違いは、文章中の「経」と「伝」の量と内容である。

  「経」とはその年の行事を示し「〇年 戦争があった」など。

  「伝」とは出来事の詳細を示し「〇〇と××がいがみ合い、▽▽の地で決闘を行った時、民衆まで参加を始めて戦争になってしまった」など。

  「公羊伝」と「穀梁伝」は経がたくさん載せてあり、伝は少ない。

  「左氏伝」は経が少なく、伝がたくさん載せている。歴史小説風になっている。

実際の例として、閔公二年の冬の部分の記載を挙げてみる。

〈公羊伝〉

  経 十有二月 狄(てき)入衛

  (十二月、狄国の軍が衛に入った。)「経」の部分のみの記載

〈穀梁伝〉

  経 十有二月 狄(てき)入衛

  (十二月、狄国の軍が衛に入った。)「経」の部分のみの記載。公羊伝と全く同じ。

〈左氏伝〉

  経 十有二月 狄(てき)入衛。

  → 経の部分 (十二月、狄国の軍が衛に入った。)前二伝とここは同じ。

  伝 冬十二月、狄人伐衛。衛懿公好鶴、鶴有乗軒者。将戦、国人受甲者、皆曰、使鶴、鶴実有禄位。余焉能戦。……続く。

  → 伝の部分 (冬の十二月に狄の人が衛を討った。衛の懿公は鶴が好きで、鶴の中には軒(大夫の車)を贈られているものさえいた。それで、いざ狄軍と戦う時に、鎧を受けた国の兵隊たちは皆、「鶴を使えばいいさ、鶴は禄も位もあるじゃないか。なんで我々が戦う必要がある」と言った。)

 

これらを見て分かるとおり、明らかに左氏伝は別の話が加わっている。当時の衛の王様(懿公)は鶴が大好きでいっぱしの大臣扱いしていたのだ。この話は公羊伝、穀梁伝には見えない。

左氏伝は歴史を詳しく記しただけではなく、当時のうわさ話(男女の問題、趣味、占い等)も加わり、ある意味面白いのだが、儒教を学ぶ真面目な学生には奇異な話が多く取り入れられた感も否めず、そういう点からも中国の正当な春秋とは考えられなかったようだ。

個人的にはその奇異なところが面白いのだが…。私はその魅力について思いついたことをいろいろ書いていければなあと思う。

 

最後に、司馬遷、「史記」という歴史書を書いた有名な歴史家(と断言していいのか分からないが)の述懐について紹介する。

司馬遷史記を書くにあたって、彼なりに苦しい胸の内、大きな歴史編纂の事業をなすにあたって、自分の気持ちを綴っている。(報任少卿書より)

「古者富貴而名摩滅、不可勝記。唯倜当非常之人偁焉。蓋文王拘而演周易、仲尼厄而作春秋、屈原放逐乃賦離騒、左丘失明厥有国語、孫子臏脚兵法修列、不韋遷蜀世傳呂覧、韓非囚秦説難孤憤。詩三百篇、大抵聖賢発憤之所為作也。此人皆意有鬱結、不得通其道。故述往事、思来者。乃如左丘無目、孫子断足、終不可用、退而論書策以舒其憤思、垂空文以自見。」

(昔から富貴の人の名前が残らないことは挙げるいとまもないほどだ。ただ非常に優秀な者だけが名を残すことができる。例として、文王は囚人となり「周易」を作り、孔子は困難な日々を過ごす中で「春秋」を編纂した。屈原は国から追われて「離騒」という詩が遺された。左丘は失明して「国語」を表し、孫子は足を切られ「兵法」を編み出した。呂不韋は蜀の地へ流されたことで呂覧を作成し、韓非は秦の地で囚われ、「説難」「孤憤」を世に残した。「詩経」の三百あまりの歌は、聖賢の人の心中が発憤されたものだろう。この人たちは皆、正しいと思っていることが世の中に通らず、心の中に鬱積したものがあったのだ。それ故に過去の歴史を述べて将来の者に託したのだ。左丘は視力を、孫子は足を失い一生使い物にならなかっただろう。だから世の中の表から身を引き、書策を書くことでその鬱積した気持ちを表し、それ残すことで自らの気持ちを世の中に発表したのだ。)

私は10年以上前、司馬遷の墓に行ったが、大層立派なお墓で、小高い山のようになっていた。まだ工事中のところには、現在の中国の文人、有名人らしき人々の賞賛する石碑が、司馬遷の墓標に繋がる小道に延々と立てられていた。司馬遷の願いはかなったのだ。

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司馬遷墓入口

左氏伝の作者である左丘明のお墓はないようだが(もしあったら申し訳ない)、ある意味作品が墓標であろう。書物を残すということは単なる記録ではなく、当時、苦難に遭った人々にとっては政治批判、自分自身の心情の発表に繋がるものだったのだ。

自由に意見が発表できる現代には不要の文学かもしれないが、君主制の、一歩間違えれば命を失うような世界に生きた作家が描いた政治批判を伴う歴史書を紐解くということは、非常に興味深いことではないか。

 

※文中に表記できない繁体字簡体字は日本で通常使われている漢字を当てています。

※参考文献

 〈日本〉全釈漢文大系 春秋左氏伝 上・中・下 集英社

     春秋左氏伝 上・中・下 小倉芳彦訳 岩波文庫

     新釈漢文大系 史記十四 (列伝七) 明治書院司馬遷部分)

 〈台湾〉新譯 公羊傳 三民書局

     新譯 春秋穀梁傳 上・下 三民書局

 〈中国〉中国史学要籍叢刊 左傳 上・下 上海古籍出版社

※注意 私は専門家ではないので、春秋左氏伝一般に関する私の記述については参考になりません。調べ物をする場合は必ず文献に当たっていただきたい。ここに記すのはあくまでも私見である(笑) 

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参考文献