空のなごり

経験、思ったこと、共感できることなど書いてみました。

1.6 放射線治療についての検討

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牡丹。近くのお寺で咲いていたものを撮影。大輪の花は綺麗です。

放射線治療について、私は前向きにはなれませんでした。

担当医の先生にはするかしないかの結論は待ってほしいと答えました。

私の乳がんは「非浸潤性乳管がん」で、本来はガンではなく、「前がん物質」であり、乳がんだけ、ガンでなくても、乳がんという名前が付くものでした。

だから、通常のがんと同じ治療行為の放射線治療することに懐疑的でした。

 

そこで、図書館、専門サイトで情報集めしました。

非浸潤性乳管がんについて、基本的な情報は

・前がん物質であり、放置した場合、ガンに変わる(いわゆる他細胞に浸潤して転移を  始める)か、その前がん物質のままで推移するのか研究中であり、まだ分からない。

・基本的に約9割方の予後は良好であり再発は極めて少ない。

・最新情報(2016年当時)では、非浸潤性乳管がんの治療行為については過剰治療行為の可能性もあるとの議論が海外で起こっている。

 

また、私は日本の医療について不信感があり(あくまでも個人的な意見です)日本で行われている治療行為が遅れているのではと思っていて、海外の情報を検索しました。

今は、海外の医学論文を有志の方が翻訳し、最新情報が手に入ります。

それによれば、非浸潤性乳管がんの治療における放射線治療について

・過剰治療と考える医師と少しでも再発の可能性があるのなら治療すべきと考える医師とで意見が分かれている。

・非浸潤性乳管がんをそのまま放置した場合、どのくらいの割合で浸潤性乳がんに変わるのか研究中であり、詳細なデータがなく、全く不明

・海外でも、基本的に放射線治療を勧めているが、今後は変わる可能性がある。

ということでした。

 

ここで総合的に放射線治療のメリットデメリットを検討しました。

〇メリット

 ・放射線治療によって、検査で発見できない微細なガン細胞を死滅させ、再発や別のがん発生を取り除くことができる。

 ・世界的に標準となっている治療

〇デメリット

 ・放射線を受けることにより、その部位の細胞が傷つき、肌や乳管が再生できず、傷んだ状態となる(妊娠しても母乳が出ない、皮膚が薄くなり、再度の手術は難しい等)

 ・治療中仕事を休まなければならない。(約1か月かかる)

私にとってはどっちもどっちでした。

正直、自分の体を放射線にさらして痛めつけることにひどく心が傷つきました。これ以上体にダメージを与えない方法はないかと考えました。

だから、怪しげな民間療法を行うガン患者がいるのも分かります。助かりたい一心でそういった治療法を取るというより、身体を傷つけたくなくて、優しい治療をしたくなるんですよ。だって、もう手術で十分傷ついているんだし、これ以上、身体を痛めつけられますか?って思います。

 

結果的に私の心を押したのは「世界的に標準となっている治療」ということでした。

もしかしたら、20年後、50年後、「放射線治療なんて恐ろしい治療していたんだな。今はこんな有効な治療あるのに」という未来が待っているかもしれませんが…。現在に生きる私にとってはこれ以上の選択肢がないんだと思いました。

1.5 告知後の出来事

告知を受けた後、いろんなことがありました。

 

一番ショックだったことは、両親の態度でした。

ガンと告知されたと伝えたら、その反応が意外でした。

私は、両親から慰めを悲しみが返ってくると思ったのですが、返事は

「どうしてガンになったの」

「一人暮らしで生活が乱れてたんじゃないの」

「不健康な生活してたんでしょう」

「親戚にも祖先にも乳がんはいない」

「うちの子がガンになったなんて、人に言えない」

というもので、まるで私が悪いからガンになったと言わんばかりの責める言葉の数々…聞くだけできつくなりました。

私に対する慰めやいたわりは全くなく、この状態は1年ほど続きました。私もメンタル的にきつくなったので、途中、1年間ほど両親と連絡を断ったくらいです。

死に繋がる病気や問題が発生した時、他人はどんな行動に出るかわからないものだとつくづく思い知りました。

私の知人もガンになりましたが、やはり両親は冷たいようでした。こんなものなのでしょうか…?

子供が死に直面する病気になったという現実を拒否しているのかもしれないですね。

 

親しい友人の何人かに、ガンのことを話しました。

まるで他人事のような人もいましたが、3人ほど、心の底から心配してくれて、私を気遣ってくれる人がいました。

傷ついた時はやさしい言葉はうれしいものです。それも表面的なやさしさではなくて、本当の気持ちだと安心できます。

もちろん、その友人とは今でも大切な友達です。

 

職場の人の反応ははさまざま。

同じ部署の上司、先輩はとても親身に心配してくれて、本来忙しい部署に異動する予定だった私を楽な部署に異動させてくれました。また、治療に専念できるように、とても協力してくれました。

前回話しましたが、先輩の奥さんも乳がんサバイバーだったので、先輩は直接奥さんに話を聞き、私にアドバイスをくれました。それはとてもうれしかったです。

やはり、実際に経験した人の話、励ましは力になりますね。

ただ、トップの人は態度が違っていました。

飲み会で隣に座った時に、私がガンと知っているので、私にこう尋ねてきました。

「ところで、あなたさ、余命いつまでなの?」

当時、有名人の女性が乳がんで亡くなったので、話題になっていたからか、私が死ぬと思ったのでしょう。

「初期ですので、寿命はありません」

そう答えました。こういったデリカシーのない人もいるんですよね。

本当に悲しいことです。

 

心の慰めとしては

仲良し友達とのたわいもない話

動物番組(特に海外のペット番組)

好きな音楽(昔聞いていたやさしい音楽がよかった)

SATC(有名なアメリカのNY舞台の女性ドラマ)のサマンサの乳がんエピソード

心の栄養補給にとてもよかったです。こういうものがないと、ふとした瞬間に涙が出てきたりするので、本当にきついです。

2.1 きっかけ

吃音になったきっかけからお話しします。(2から始まる題名は吃音について)

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Canada.Banff. バーミリオン湖から眺めたランドル山

私は子供の時から吃音があり、それが生まれつきなのか、何か原因があるのか分かりませんでした。

吃音は身体的な障害ではなく、習癖であると医学書に書かれています。精神疾患の中で情緒に関する障害の部類に入っています。ですから原因も分からない、治療法も分かりません。

 

大学生の頃だったか、ある時、フラッシュバックのように小さい頃の思い出がよみがえり、それが原因で吃音になったのだと気づきました。

 

それは、私がまだ3歳の頃、一つ年上の兄が幼稚園への入園式を翌日に控えた日、両親が仕事に行っていて、私と兄の二人で留守番をしていた時のことです。

入園式前日で、私も兄も興奮していました。

そこで、白いふすまに、クレヨンや赤チン(赤い軟膏です)で好きなように絵を描きだしたのです。

すると、仕事を終えた母が帰ってきました。母は家に入り、ふすまの落書きを見て驚き、クレヨンまみれの私と兄を見て激怒しました。

その時、私は、悪いことをしたとは思っていなかったので、怒る母に謝りませんでした。

それが母の逆鱗に触れたのでしょう、私はひどく叩かれ、私が泣きわめいても止めてくれませんでした。

 

その一晩で私は、普段優しい母がこれほどまでに怒り、叩き、殴るということに衝撃を受け、言葉を失ったのです。

兄はその時、すぐに母に謝ったので、暴力は振るわれず、吃音になることもありませんでした。

 

翌日、兄の入園式に私は新しく買ってもらった赤いワンピースを着て参加しましたが、一つもうれしく思わず、ただ母にびくびくして泣いていました。

私にとって、その出来事は相当な衝撃で、それ以来、まともに言葉を発することは出来なくなりました。それまで、おしゃべりで、毎日楽しく何か話をしていたのに、もう口を開いても言葉がでなくなってしまったのです。

 

母は本来、やさしい人で、叩いたり、怒鳴ったりするような人ではなく、この時以外は一度も叩かれたりしていません。もちろん、悪いことをしたら叱ることはありましたけれど。

今思い返せば、そんな母もあの時は仕事で疲れていたのでしょう。小さい子供二人を留守番させていて、心配していたこともあり、また翌日の入園式を控えて、あれこれ考えていたのかもしれません。そこに、子供が家じゅうを汚したのですから…怒るのも当然だとは思います。ただ、私としたら、そのたった1回の暴力が私の人生を変えてしまったというのはひどく理不尽でしたね…。

 

私の発声がほかの子と違うと私自身が認識したのは小学生になった頃でした。自己紹介、国語の授業で、まともに言葉を言えなかった時、ほかの子と違っているのに気づいたのです。

当時、まだ昭和50年代。担任の先生も、私の両親も「変な話し方だな」とは思ったようですが、特に手当や治療されることもなく「そのうちに治るだろう」と思われ、放っておかれました。

でも、治らないんですよね。そんな簡単に治るなら「吃音」なんて病名ないですよね。

 

後日談ですが、社会人になって、昔話を両親としている時、私の吃音のこと、そのきっかけのこの事件のことを話しました。両親は涙を流して謝ってくれました。私は謝ってほしくて話したわけではなかったのですが…。

1.4 ガン告知

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大好きな花、プルメリア

手術はあくまでも細胞検査のためだったので、私は手術から2週間後に結果を聞きに病院へ行きました。

 

診察室の前で待っている時、たまたま、診察室のドアが大きく開いて、先生の顔が見えました。

その時、先生は私の顔を見て「はっ」とした顔をしました。

それは困惑したような、見たくないものを見たような様子だったので、私は結果が悪いものだと気づきました。

それまで、異常なしの結果ではないかと期待していたので、悪いと気づいた時、手足が冷たくなり、背中が震えました。

 

診察室に入り、先生と対面しました。

術後の経過、傷口の様子を話した後、先生は目の前の画面上に手術で採った細胞の画像を見せながら私に言いました。

「細胞の組織に異形成があり、初期のがんだということが分かりました」

「……」

「でも、心配しないで下さい。非浸潤性ですから、転移はありません。大人しいガンです」

「……」

「正式な名称は非浸潤性乳管がんと言います。上皮内ですから、ひどく心配する必要はありません。超初期で、ステージはつきません。でも、ガンですので、放射線治療は受けてもらいます」

「……」

「私の説明は分かりますか」

「……はい」

私はここに至るまでに、ネットでさんざん乳がんを調べていたので、先生の話は理解できていました。でも、心がついていけませんでした。

先生は今後の治療の予定を話し合う前に、一度、時間を取った方がいいと、また来週来院するように伝え、その日はそれだけで終わりました。

 

正直、私は平静に聞いて、歩いて、何事も無かったかのように診察室を出ました。

そして、結果を気にしている両親に「ガン」だったことを電話で伝え、絶句する両親を無視して電話を切り、いつものように公共機関に乗って家に帰りました。

勤めていた職場は、ちょうど異動先が決まる時期でしたので、とりあえず、上司にガンだったことを伝達し、明日普通に出勤するので大丈夫だと言いました。

 

家に到着し、一人、ベッドのふちに座ると、それまで冷静だったのに、はらはらと両目から涙が出てきました。

私のことを心配してくれている友人が何人かいたので、結果を知らせないといけないのに、元気が出ませんでした。

ただただ「ガンだったんだ。私はガンだったんだ」と心に刻むばかりで茫然としていました。

 

上司から聞いたのか、同じ部署の先輩からラインに連絡がありました。

「僕の嫁さんも乳がんになったよ。手術からもう5年経った今は元気で楽しく生活しているよ。心配するな」

このセリフに涙が止まりませんでした。

1.3 手術

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手術した後の手

手術には4日間を要しました。

1日目 入院手続きと事前検査

2日目 手術

3日目 休養

4日目 退院

 

部屋は外科用の4人部屋でした。

私以外は長期入院している女性のようでした。

 

入院後、主治医から挨拶がありました。

若い女性の研修医を連れてきて、執刀医は彼女ですと紹介されました。

主治医が指示するので大丈夫とは言われましたが、手術回数が多いベテラン医の執刀を期待していた私は正直ショックでした。

簡単な手術なので大丈夫ですとの説明でしたが、さすがに研修医の前でこんなのは嫌だとは言えず、また逆にそれだけ軽い手術なのだから私は大したことないのかもと思ったりして複雑な気持ちでした。

 

女性の研修医さんは後から一人で私のところに現れ、自己紹介をし、何度も私を安心するように話しかけ、私の手術部位を触ってしこりが感じられないのに驚きながら、最後にはよろしくお願いしますと挨拶してくれました。

私の不安を察してというのもあるでしょうし、彼女にとっても初めての患者なので気持ちが入っていたのかもしれません。少しうれしかったです。

 

手術の日、両親が手術の時間に間に合わないと連絡を受け、たった一人で手術に向かう時の辛さと言ったら…。本当に悲しい気持ちでした。

手術台に仰向けになり、手術する側は右の乳房だったので、右腕を真横に広げた状態にされました。そして麻酔をされたのです。

気を失いながら、自分の胸に心の底からさようならと告げました。

 

手術前に最後の姿を残しておこうと胸の写真を何枚か取りました。

傷のない姿はそれが最後になるでしょうから。

 

手術は2,3時間だったと思います。

気づいた時はぼんやりしていて、母の声がしていました。

はっきりと目が覚めた時、肩から首のあたりがひどく寒くて、そばにいた母に「上着を取って私の首のあたりにかけて!!」と何度も叫びました。

手術が2月だったので、フリースの暖かい上着を持ってきていたのはいいアイデアだと思いました。

 

私は手術後の説明は受けていないのですが、両親は私がまだ眠っている間に主治医から説明を受けたらしく、切り取った部位や手術の様子について聞いていたようです。

3~4センチ四方切り取られ、その中心部分に赤い塊があり、それが問題の部位だったそうです。

 

傷口は全然傷みませんでした。大きな包帯が巻かれていましたが、退院するときに外してくれて、胸を見ると、3センチくらいの一本線が走っていて、胸の大きさが変わったようには見えませんでした。

筋肉部を糸(体内に吸収されるもの)で縫合し、そと側の皮膚はおおきなセロテープみたいなものでしっかり張り付けてありました。

これをすると縫合部がきれいに塞がるということでした。

退院する時はいつもと変わらない元気さで、特に不自由することもなく、心配する両親が車で送ってくれました。(私は両親とは別に一人暮らしをしているのです)

1.2 手術を決心するまで

細胞診を受けた後、私は心配のあまり仕事に手がつかなくなりました。

どうしても安心がほしくて、スマホで「細胞診」に関する情報を検索しました。細胞診をしても異常はなかったという結果がある記事やブログを探しました。

でも、細胞診をして悪い結果というのが多かった。もともと細胞診を医師が薦める段階で、結構深刻な状態なのです。

私はお風呂に入って自分の体を見るたびに、こんなに元気なのに、嘘じゃないか、何かの間違いじゃないかと思いました。悲しい気持ちになるばかりでしたね。

 

そして、結果発表の日。

先生から「結果は分からなかった」と告げられました。

私の乳房から採った細胞片はごくわずかで、病変がもともとひどく小さく、採取するのに難しい上、生理検査するのに情報が少な過ぎるということでした。

先生は「手術して病変を取りましょう」と言ってきました。

「明らかに異常な細胞だが、ガンではないかもしれない。ただ。それは取ってみないと分からない」

「その代わり、ガンだったらいけないので、病変本体のみを採取するのではなく、病変の周り2,3センチ四方も切り取ります」

と言われました。

(注:ガンである場合、組織が広がっている場合があるので、周りの細胞もしっかり取らないと、再発する可能性が高くなるそうです。もちろん、ガンでなかった場合は無駄に組織を大きく取り、身体に負担にはなるのですが)

 

手術について、私はどうしても譲れないものがありました。だから先生にこう言ったのです。

「傷跡はどうなるんですか。水着は着れますか。胸が陥没したりするのですか。変形してみっともない形になるのですか」

相手は若い男性医師だったので、女性の気持ちが分からないだろうと思って、私は半ば怒ったように質問しました。

先生は圧倒されたように、ただ「そんなことはありません。3センチくらいの一本線です。傷跡は残ると思いますが、そんなひどいものではありません。水着は大丈夫です。体積を考えると、少し胸のサイズが小さくなるかもしれませんが、そんなに思うほどひどいものではありません」と言うばかりでした。

そして、次回来院した時に結論を決めることになりました。

 

当時、私はオーストラリア人の男性に個人的に英語を習っていたのですが、その人からは「とんでもない。男の医師でいいのか。女性の体なんだぞ。女性医師にセカンドオピニオンすべきじゃないか。身体を傷つけることを簡単に決めるもんじゃない!」と言われました。本当にそのとおりだと思いました。

 

ガンかもしれないという理由で、乳房が傷つけられてもいい

というのは、病院の医師はそれで当然でしょうけれど、そうではないんです。

やっぱり女性として特別な思い入れがあります。

可愛い服も下着も、水着だって、楽しんで着られるのは乳房があるからで、それは私の大切な一部です。(私は独身で子供がいないので、授乳という理由はありませんでしたが)

できるなら一つも傷つけたくありません。

だから、簡単に「ガンかどうか確認するために手術しましょう」と言われるのにひどく違和感があります。

それに、私は自分の乳房がとても気に入っていました。だから、安易に承諾できなかったんです。形が変わるかもしれないのに、そう簡単に決心などできません。

 

私はネットであれこれ検索しました。

こういった場合、どうなるのか。どういう手術になるのか。そして形がどう変わるか。

これについては個人で情報をアップしているものがほとんどありませんでした。

全摘した人や再建した人の話はあったのですが。私のような温存手術している人はほとんどいませんでした。

それからセカンドオピニオンのために病院どうすればいいかも検討しました。

ネットでどういう病院がいいかと調べると、アドバイスとして

・手術経験が豊富

・専門医がいるところ

ということが分かりました。手術経験というのは大切で、医者も人ですので、経験不足だと手術に失敗する率が高くなるということでした。大病院でも、手術件数が少ない所は止めていた方がいいと思います。もちろん、失敗は滅多にないでしょうが、自分が失敗されたら嫌ですから。

病院や手術情報については沢山データがあり、特に東京のある乳がん専門医のホームページが役に立ちました。問題意識の高いお医者さんがいるのは本当に助かります。

 

結局、私はガンだから取るのではなく、あくまでも検査するために取るということだったので、手術することに決めました。

セカンドオピニオンも考えたのですが、「あくまでも検査」となると、他の医師も同じように手術を勧めるか、病変を上手に取るまで何度も細胞診をするか…しか選択肢がないことが分かったのです。それに私の病院は手術件数も多かったので、そこも安心材料でした。

1.1 再検査

発端は特別検診の再検査(1から始まる題名は乳がんについての話です)

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スリランカ、パーシクダーのビーチ



 

ことの発端は2015年の冬でした。

当時、私は気管支炎になったり、帯状疱疹ができたりと、今までかかったことのない病気になり、通院していました。

そんなに体が強くもなければ弱くもなかったけれど、こう頻繁に病院へ行くという経験はしていませんでした。

それらの病気が片付き始めた頃に、私は約1年前に受けた人間ドックの再検査をしたのです。

再検査といっても、昔からよくひっかかるものでした。(心電図異常です)ただ、それに加えて乳がん検診も再検査となっていました。

2014年の秋頃、人間ドックを受ける時、40歳近いし、受けてみようと乳がん検診を入れたのです。しかも、乳腺エコーをしたときに、担当者から「なんか気になります」と言われただけで、しこりがあったわけではありませんでした。

 

再検査をした時、私は異常なしを決め込んでいたのですが、結果を聞きに、いざ診察室に入ると、ひどく重苦しい雰囲気で、私は恐怖心を感じ、何か問題があったのだと気づきました。

 

先生は「細胞診をしたい」と言ってきました。

問題のある個所に大きな針を刺して、その目的の場所で細胞を一部取るというものです。私は頭が真っ白になりました。

先生は、再検査の結果、異常がありそうだが、何か分からない。もしかしたらガンかもしれないし、単なる乳腺症のようなものかもしれないと言いました。

ガン

という言葉に私は真っ青になりました。想像だにしていませんでした。

先生はともかく、細胞診をしない限り、何か分からないから検査させてほしいということを頼んできました。

断ることはできませんでした。

 

細胞診痛いです。本当に。

麻酔してくれるんですけれど、乳房に大きな針が入り、先生は超音波で目的の個所まで到達するのを確認して、スイッチを押すのですが…その時

バシーーン!!!

と体全体に衝撃が走りました。衝撃で涙が出そうでした。乳房が痛めつけられてるようで、悲しい気持ちになりました。

針が抜かれると大量に血が出てきます。それを見ると、ひどく辛くなって涙が出てきました。

 

私の症状は乳管に嚢胞があり、その中に異常な形成をしている細胞が見受けられるということでした。

先生は問題の個所はひどく小さいので、細胞診でうまく取れたか分からないと不安そうに言いました。最後に、結果は2週間後に分かるのでその時また来てくださいと言われ、その日は終了しました。

それから私の生活は一変してしまったのです。

※写真は2015年夏に行ったスリランカ北東部の小さなビーチ。この時、かわいい水着を着て楽しんでいました。まさか半年後にこうなるとは知らず。懐かしい思い出です。