空のなごり

経験、思ったこと、共感できることなど書いてみました。

4.4 春秋左氏伝 魯の家臣たち(季孫氏の祖、公子友の場合)

※4から始まるものは春秋左氏伝について書きます。

 

春秋という歴史書は以前書いたとおり、魯の歴史書である。

そのため、内容には魯の家臣が多数登場する。その中でも季孫氏の者が一番活躍している。今回はその季孫氏の祖、公子友のことを書きたい。

公子友は魯の桓公の次男、母は斉の公主である文姜、兄は荘公(桓公の後の魯の国君)である。またの名を季友、成季とも言う。

母の文姜は斉の襄公(文姜の兄)と密通するような女性で、その密通知った桓公が文姜をとがめたことで、浮気相手の襄公と共謀して桓公を殺している。

桓公の死後、荘公が即位する。

 

魯では国君の子が生まれる前に必ず占いをしているようだ。

公子友に関して左氏伝では面白い占い結果を記している。

その内容は

①男子

②公(国君のこと)の右(補佐的な役割をする重要な人物のこと)になる

③周と魯の間で、魯の公室を補佐する

④この子の子孫が滅びると魯も繁栄しない

となっていた。実際、公子が産まれると手に「友」の手相が出ていたので、名前を「友」と名付けたそうだ(閔公二年の記述より)

 

〇春秋左氏伝より

BC662、荘公32年

 寿命を感じた荘公が自分の跡継ぎのことを心配し、叔牙(荘公の異母弟、慶父の弟)と公子友(荘公の実弟)に尋ねる。

 叔牙「兄の慶父がいいと思います」

 公子友「荘公の嫡男の子般がいいと思います」

 結局、公子友は子般を擁立するため、叔牙を自殺させ、子般を国君にさせたが、子般は母親の実家に籠って出てこなかったので、慶父が子般を殺し、庶子の公子開を国君にして閔公(びんこう)とする。

 公子友は陳へ逃亡。

BC661、閔公元年

 閔公が斉へ行き、季友(公子友のこと)を帰国させた。

 

BC660、閔公2年

  国君の座を狙っていた慶父が閔公に恨みをもつ者をそそのかして閔公を殺した。

 季友は公子申(閔公の異母弟)を伴って邾(ちゅ:魯の近隣の小国)へ乱をさけ、慶父は莒に逃げた。

 季友は慶父が去ったことを知ると魯へ戻り、公子申を国君に立て、莒(きょ:魯の近隣の小国)に慶父を殺すように指示した。

 これで魯は内乱が収まり、公子申は僖公(きこう)となった。

BC659、僖公元年

 季友が莒を破り、その功績として汶陽の田土と費を賜る。

BC644、僖公16年

 三月壬申 公子季友卒す。

BC621、文公6年

 季友の孫である季孫行父が春秋に記される。

 

〇魯の国君擁立の裏事情

国君擁立は過去、未来、どの国でも嫡子が自動的になるというよりも、後ろ盾が強い方、母親が寵愛された方となるのは変わらない。魯ももちろん例外ではない。

そして、後ろ盾となる者は、魯では母親とその愛人というパターンが多い。

春秋で述べられた期間、最初にそのパターン出てくるのは前述の荘公32年である。

公子友が後ろ盾についたのは子般。

慶父が後ろ盾についたのは閔公。

子般は慶父に殺され、閔公が国君になるのだが、裏事情があり、荘公の正妻だった哀姜は子がおらず、彼女は慶父と通じ、最終的には妻となっている。彼女は夫の慶父を国君にしたかったのだ。ちなみに閔公の母は叔姜であり、哀姜の妹である。

そういうわけで、慶父は閔公から国君の座を取るべく、閔公をすぐ殺している。閔公は在位たった2年だ。

 

閔公亡き後、慶父と玉座を争ったのは、公子友が後ろ盾となった僖公だ。僖公の母は成風。彼女は僖公を産み、夫の荘公亡き後、公子友の妻となっている。つまり、僖公は公子友の妻の連れ子ということだ。当然僖公は国君になった後、母とその夫へのお礼として国土を渡している。これが季孫氏の発展の始まりとなるのだ。

 

それから僖公の後の文公の跡継ぎについても似た争いがあった。

文公には正妻の哀姜が二人子供がおり、側室の敬嬴には公子俀(たい)がいた。

敬嬴は襄仲(公子遂;公子友の甥、荘公の子)の愛人であり、襄仲は敬嬴の子に国君を継がそうと、哀姜の二子を殺し、公子俀を国君につけた。それが宣公である。

その仕打ちに悲しんだ哀姜は斉に帰ることになり、途中で国民に、襄仲の無道を訴えた。

 

下って、昭公の時代、季孫氏の季平子が闘鶏した時、争いになり、季平子に手を焼いた大夫たちが昭公に相談し、昭公が季平子を攻めた。しかし、季平子の財力と権力がすさまじく、結局国君の昭公が国外逃亡する羽目となる。

 

この国君国外逃亡に関して興味深い場面がある。それは晋の趙簡子と蔡墨の会話のシーン。

趙簡子は魯の国君を季平子が追い出し、それでも魯の国民が季平子を支持していることに疑問を持ち、それを蔡墨に尋ねると、蔡墨は史官なので、過去の歴史や自然節理を元にその理由を説明する。その内容を箇条書きにすると

●ものには副があり、天が魯公の副(補佐)に季孫氏を選んでいるから民が懐くのも当然

●魯の国君はずっと高位に甘んじているだけだが、季孫氏は研鑽し学んでいたから国民は国君の存在を忘れてしまった

●国の主も不変ではない。もちろん家臣の地位が上位と変わることもある

●季孫氏の祖の季友(公子友)は占った結果にも公室の補佐となるとでていた

●文公の後、嫡子を殺し、庶子が立った段階で魯は国政を失った

そして最後に、魯の国君は国君の象徴である車馬や称号を大切に扱い、簡単に他人に渡したりしてはならなかったのに、渡してしまったからこうなったのだと言っている。

 

〇季孫氏の存在

 公子友の占い結果は最終的には当たっていたと言えるだろう。春秋左氏伝の終わりはまだ魯があり、季孫氏は季康子となっている。ちょうど孔子の弟子が活躍し、孔子は引退しながら弟子のその後を心配している。

 春秋時代が終わると、魯はほとんど記述がない。戦国時代において、記述が多いのは他の国ばかりだ。存在がひどく希薄になっていたのだろう。また季孫氏のその後は私が調べた限り不明である。

 魯はこの季孫氏と叔孫氏、仲孫氏(苗字は孟)が権力を握っている。ひと際強いのが季孫氏だ。

 ちなみに、この三氏はすべて桓公の公子から派生している。斉の公女を迎え、その妻に浮気され、浮気相手の斉の襄公に殺された魯の国君だ。ここから魯の国政は乱れだしたのだろうと思われる。結局妻の浮気、後見人、そしてその子という因果な流れはずっと続いたのだ。

 

 左氏伝において、魯という国、そして季孫氏の位置づけを記述することで何が読み取れるのだろうか。

 私は、公子友の占いの表現から、どうしても「天意」なるものの存在を重視していると考える。

 その天意通り、公子友の家系は栄え、それに引きずられるように魯の王権は小さくなっていった。天命だからしかたない。まるでそう言っているかのようである。

 ただ、蔡墨のセリフに出てきた「車馬や称号を大切」にしさえすれば魯の王権は維持されたのだろうか。多分維持されたのだろう。

結局、国君の威厳を保つものをひとつずつ失ってしまったのはその時の魯公の対応や軽さだった。妻が陰で権力ある男に近づき、庶子であっても、国君となれるように後見人を頼むという悪循環は続いた。それは国君の力の無さ、能力の無さが続き、ただただ血筋しか残らなかった悲劇なのかもしれない。

 せっかく、周王朝建国の要であった周公の国だというのに、子孫が全くパッとしなかったというのは、周公の威光や周王朝の庇護を過信しすぎたのだろうか。

 覇を唱えられるだけの能力のある国君が現れなかったのは、魯という国の底力の無さによるものなのだろう。

 もっと手厳しく魯国の政治を批判してもいいのに、自国の歴史書という位置づけから、天意というオブラートに包んで「こんな国君が続くのだからしかたない」という自嘲気味な感想でうまく濁しているのだけなのかもしれない。

 

周易とのつながり

 公子友が産まれる前の占いの際、筮を立てると、「大有」から「乾」に変わる卦が出た。

 (このブログで易経八卦の表示ができないので、卦の表示は割愛する)この卦について、この公子友に合わせて大げさに表現するなら、最初に出た「大有」は補佐する者が最高で、国が豊かになる卦。次に出た「乾」はいわゆる「陽」の最高の形である王位が極まる卦である。占い結果は補佐するものが最高で、それは王座に近い存在になるだろうという内容だ。まさに将来を表している。筮をした占い師は、公子友の父である桓公が不快にならないように、公子友は永遠に補佐でいるという表現をしてごまかしているようだ。

 しかし、変じた先が「乾」という王位の竜の最高形なら、どうみても王位を奪う存在になるという意味にしか捉えられないのだが。最終的に季平子の時代は王を国外逃亡に追い込み、国の政治を自らやっている。筮は当たったのだ。

 

 春秋左氏伝では、よく易が出てくる。

 もともと易は周易と言い、文王が作り、周公がそれを補足して深めたと言われているもの。魯の祖である周公が作ったものであるから、魯では何かあるたびに筮を立てたのかもしれない。

易について、左丘明は肯定的にとらえていたのだと思う。というのは、この公子友の話だけではなく、他のエピソードでも出てくる上、結構筮が当たる。話を作るためにわざとでは?というところはあるだろうが、その表現の意図を考えれば、左丘明は歴史の流れ、人間関係はある意味「自然秩序」の範囲内で流れ、変化し、そして結論に達するという考え方を持っていたのではないかと私は思う。

易は、現代の目線で見れば、ひどく不可解な、自然科学を知らない古代の行為であるが、実際、周易(今は易経)を読めば、ひどく奥深く、面白い。当時としたら最先端の科学だったのだろう。陰陽の関わりは今でも通じるものは沢山あるはずである。

 

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山東省 曲阜 周公廟の周公像

周公廟に行った時、入り口に50代くらいの男性が立っていて、私が門を入ると、「中を案内するからお金をくれ」と言ってきた。その人は周公の子孫だと言う。私は詐欺を疑ったが、周公の正当な子孫だと力説し、周公の祭りに出席している映像なども見せてきたので、信用することにして、中を案内してもらった。詳しい説明と家系の自慢をしっかり聞いた後、最後に料金請求の時、最初と言っていた金額が違い、高額になっていた。私は周公の子孫なのに恥ずかしい、最初の金額はこうだったじゃないかと言うと、しぶしぶ最初の金額でいいと言ってくれた。なんとも気持ちの晴れない思い出になった。

 

※文中に表記できない繁体字簡体字は日本で通常使われている漢字を当てています。

※参考文献

 〈日本〉全釈漢文大系 春秋左氏伝 上・中・下 竹内照夫 集英社

     春秋左氏伝 上・中・下 小倉芳彦訳 岩波文庫

     易経 上・下     髙田真治ほか訳 岩波文庫

     超訳 易経 陽・陰  竹村亞希子 新泉社

※最後に、ここに記すのはあくまでも私見である。