空のなごり

経験、思ったこと、共感できることなど書いてみました。

4.3 春秋左氏伝 貴公子(呉の季札の場合)

※4から始まるものは春秋左氏伝について書きます。

 

季札(きさつ)は呉の公子である。季は末子の意味、札は名。呉という蛮地に生まれながら、その知識の高さと礼節を重んじる人柄で諸侯から尊敬を集めた人である。

呉は現在の蘇州付近にあった国家で、その祖は太伯と言い、周王朝の祖である文王の伯父である。文王の父親である季歴が優秀であったため、本来嫡男であり跡継ぎである太伯は弟の季歴に跡継ぎの身分を譲るため、自ら国を去り、南の蛮地である呉へ去った。

それから数百年後、呉は長江南方の国として強大な力を持ち、王国へと変化していった。

その時の国王が寿夢(じゅぼう)である。

寿夢の正妻に4人の子があり、長男を諸樊(しょはん)、次男を余祭(よさい)、三男を余昧(よまい)、そして四男が季札(きさつ)である。

 

〇春秋左氏伝より

BC561、襄公12年

秋、呉の寿夢が亡くなる

BC559、襄公14年

  跡を継いだ諸樊は、寿夢の喪が明けると、すぐに季札を国王に立てようとしたが、季札は辞退した。それでも無理やり国王にしようとしたが、季札は家財を捨て、田舎に逃げ、そこで農業を始めたので、諸樊は諦め、そのまま王として執務を行った。

BC548、襄公25年

  呉王の諸樊は楚に侵攻し、戦で矢に打たれて亡くなった。

BC544、襄公29年

  諸樊の亡き後、跡を継いだ余祭のために季札は諸国を巡り、その即位の報告を使者として行った。

  その際、季札はさまざまな国を訪れ、重要な人物に助言や忠告を行っている。

  魯では、叔孫穆子に将来の災難を予言、また魯の宮廷で古の音楽などを楽しみ、感想を述べている。

  斉では晏嬰(晏子のこと)と会い、彼の将来を心配し助言をしている。(おかげで晏嬰は助かっている)

  鄭では子産に会い、その将来のアドバイスをしている。(子産はのちに鄭で執政となりその慎重で堅実な政治と外交で鄭を盛り立てる)

  衛では有能な家臣を褒め、衛の安定を予想する。

  晋へ行く途中で、謹慎する身の孫文子が音楽を楽しんでいるのを見て批判する。(孫文子は季札の批判を耳にし、反省して二度と音楽を聴かなかった)

  そして晋に到着すると、趙文子、韓宣子、魏献子と気が合い、晋の将来の予言をする(のちに晋はこの三人の子孫に分割され、趙、韓、魏の三国となる)。重臣である叔向 に難を逃れるよう助言している。

BC542、襄公31年

  趙文子が呉王の夷末(いばつ…余昧のこと)の使節である屈狐庸(くつこよう)に「季札は将来呉の国君になるだろうか」と尋ねると、屈狐庸は否定し、夷末の子孫が国君になるだろうという。(実際そのとおりとなる)

BC515、昭公27年

季札は呉王僚(りょう…寿夢の庶子の長、季札とは異母兄)の命令で諸国へ使者として向かう。

その途中で公子光(余昧の長子)が王僚を殺し、呉王闔閭となる。

季札が後に呉へ帰ってくると、(本来季札に王座が渡されるはずなのに)闔閭が呉王となっていたが、季札は闔閭に「国の社稷が守られ、国の形を保つことができるのなら、私は誰が王になってもかまわない」と述べた。

BC496、定公14年

  呉と越が戦い、その中で闔閭が亡くなる。子の夫差が呉王となる。

  夫差が王となった後、戦が続く。

BC484、哀公10年

  夫差の命令で季札は陳へ援軍に向かう。陳は楚に攻められて苦境に立たされていた。季札は楚の将軍子期と会い、こう提案する。

「お互いの国の王は、徳に努めず、諸侯を奪い合っているだけだ。民には何の罪もない。お互い戦をせずに引き上げませんか。私が先に引き上げれば、あなたも面目が立ちましょう」

  子期はこの提案を受け入れ、季札が陳を去ると、軍を退いた。

BC473、哀公22年

  夫差越に敗れ、呉滅亡する。

 

〇公羊伝、呉越春秋より考察

他書における呉の王位の経緯や季札の人柄の描写を見てみたい。

寿夢の時、呉は中原から離れていることもあって、蛮地で遅れた地域であった。そのために、寿夢は礼儀作法、知識等を学び、国の勃興を促した。その中で末子だった季札が一番有望だったのだろう。寿夢は呉の将来を考え、季札が王になればもっと発展すると考えた。

正妻の4人の子は皆仲が良く、父の願いを聞いた、季札以外の兄弟、諸樊、余祭、余昧は父亡き後、季札に王位を譲ろうとしたのだが、季札はこれを固辞。季札は数年前に起こった曹の国での跡継ぎ問題を理由に、兄弟の順を越えて末子である自分が王位にはつけないと言ったのである。そこで、諸樊は仕方なく自分が継ぐことで、諸樊(長男)→余祭(次男)→余昧(三男)→季札(四男)と王位を継承できればいいと考えた。

 結局、余昧亡きあと、庶子の長である僚が継ぎ(呉越春秋では余昧の子が僚となっている)、季札は王位を継承せず、僚が王になったことを不満に思っていた公子光(呉越春秋では諸樊の子)は、季札が諸国歴訪中で不在の間に王僚を暗殺し、呉王闔閭となった。闔閭は歴訪から帰ってきた季札に王位についてどう思うか尋ね、季札は、自分は王位を継承しないと言い、闔閭の王位奪取を祝福している。

 

 公羊伝には、闔閭に対する季札の言葉が、左氏伝、呉越春秋とは異なっていて面白い。

公羊伝 襄公二十有九年

「爾弑吾君、吾受爾国、是吾與爾為算也。爾殺吾兄、吾又殺爾、是父子兄弟相殺終身無巳也。」

 (あなたは私の国君を殺したのに、その国君の座を私が受け取れば、私とあなたが計画して国君を殺したことになります。また、あなたは私の異母兄を殺したのですから、私が復讐してあなたを殺せば、家族の骨肉の争いがずっと続くということになってしまいます)

このように具体的な理由で季札は断っている。呉越春秋と左氏伝では季札は国が保てることが最上であり、私は誰がなっても構わないという平和主義的な思想であった。

左氏伝とは違う季札の言動だが、加えて言えば、公羊伝では、季札を賢人だと大変賞賛している。その理由はいかにも儒教思想らしい。公羊伝に

「何賢乎季子? 譲国也。」

と記載されている。兄弟の序列を大切にし、国君にならず、下野したからである。また、さらに、前述の季札の言葉の後、季札は闔閭の治める呉の宮中には行かず、自分の領地である延州へと戻った後、こう記述されている。

「故君子以其不受為義、以其不殺為仁。賢季子則呉何以有大夫?以季子為臣、則宜有君者也。」

(〈季札の行為を見て〉君子は季札が王位を受けなかったのは義であり、闔閭を殺さなかったのは仁だと認めた。賢人季札はどうして闔閭や呉の体制を認めたのだろうか。季札が家臣でいること、それがすなわち呉の君主が認めたということになる)

なお、呉越春秋、公羊伝では、季札の話は、闔閭が王僚を暗殺して君主になった時で終了している。それ以降に記述はない。

 

〇左氏伝での季札の描写

季札は父の望みを断り、最後まで君主にならず、延州で静かな生活をしていたようだ。

彼の左氏伝特有な行動は、BC544、襄公29年(前述)で顕著に記されている。諸国歴訪して各国の重臣にアドバイスをしたり、音楽を聴いて曲の由来を当てたりと才知ある人格をあますところなく発揮している。

この季札の存在は、各国の現在の状況、将来にわたる災難を予知し、それにどう対処すべきかアドバイスする聖人的な位置づけになっている。実際そのような発言があったのか不明だが、彼が当時、中原の国々の(現代風な表現だと)意識の高い人々からすれば憧れの有名人であったことは窺い知れる。

呉は本来最南方の周王朝ゆかりの国であり、完全な蛮地ではないものの、存在は薄く、相手にされていなかったようだ。しかし寿夢が王のころから、楚や越を相手に動き始め、だんだんと勢力を拡大する。季札が褒められているが、本来、寿夢が立派な王だったのではないかと私は思う。そういう父親だから、息子たちに高い教育を施し、頭角を現したのが季札だったのだろう。

 

父寿夢は、自分の祖先の太伯が行ったように、有能な子孫に王位を継がせるため、兄弟は協力すべきであり、そうすることで国の繁栄を望めると思ったはずだ。

しかし季札はそれを拒んでいる。彼は父の考えは分かっていただろうと思うのだが、兄弟の序列、嫡男が継ぐということにこだわった。公羊伝ではそれは「賢人」だと褒めているが、左氏伝では様相が違う。褒めていないようだ。季札の頭脳の高さ、人物の良さは認めているものの、王位継承を断ったことだけを以て「すごい」とは言っていない。

BC542、襄公31年(前述)の経緯で、晋の趙文子が「呉の諸樊と余祭が早く亡くなったのは天が季札に国王になるよう望んでいるのでは」と尋ねた際の、呉の臣屈狐庸の予言めいた言葉

「不立。是二王之命也。非啓季子也。若天所啓其在今嗣君乎。甚徳而度。徳不失民、度不失事。民親而事有序。其天所啓也。有呉国者、必此君之子孫実終之。季子守節者也。難有国不立。」

(季子【季札の敬称】は国王にはならないです。諸樊と余祭が亡くなったのは天命で、季子のためではないのです。もし天の恵みがあるといえば、今の余昧です。とても徳があり節度を守っています。民も信頼を寄せ、政事も失敗がありません。民が慕い物事の順序を守る人、それが天の恵みを受ける人でしょう。呉の君主にはこの余昧の子孫が最後まで君臨するのではないでしょうか。季子は節度を守る方、決して国王にはなりませんよ)

大国晋の重臣趙文子が呉の将来を不安視しているため(季札が王となって呉が実力をつけると困るという意味で)、わざとこのような発言をし、また同時に現在の君主余昧を持ち上げる…という発言をしたとも捉えられないが…左氏伝の場合はこの言葉が予言のような意味となるのでストレートに受け取っていい内容だと思われる。

要するに季札は王位は絶対継承しない、それは天命であるから…という意味なのであろう。

左氏伝は天の意を王位や運命の理由付けに使っている。それは実力で王位を奪うなど人為的な王位継承ではなく天意に基づく王位継承が最上だと考えている所以ではないだろうか。

 

〇季札の王位拒絶に関して考えること

呉は闔閭の後、伍子胥孫武等、当時としたら頭脳トップレベルの軍師が呉で活躍し、大国楚を追い立て、越を蹴散らし、その後夫差の時代となっても、他国へ攻め入り、当時の最強の国へと変化していく。

その後、夫差の傲慢な態度から、越がそれに乗じて復讐を計り、孫武は斉へ行き、伍子胥は自殺を命じられ、最終的に夫差は越との戦争に敗れて呉は滅亡してしまう。

伍子胥が自殺を命じられる前年、季札は、BC484、哀公10年(前述)に陳へ援軍に行き、楚と交渉して戦をしないまま呉へ帰っている。

季札はこの時80歳前後(参考文献には90歳前後では?とある)だったのではないだろうか。彼は楚の子期に対して、

「二君不務徳、而力争諸侯。民何罪焉。我請退以為子名。務徳而安民。」

(呉も楚も国君が徳に務めず、軍事力で諸侯と争うばかりだ。(軍役に苦しむ)民には何の罪がありましょう。私が先に退いてあなたの名誉を守ります(互いに軍を退いて戦争を止めましょう)。徳に務めて民を安心させて下さい)

季札は夫差の横暴には辟易し、呉の衰退を予測していたのだろう。彼は明晰な頭脳がありながら国を救ったりしなかったのか。逆に伍子胥は夫差を厳しく諫めて最終的に自殺を命じられるまでになっている。

左氏伝では、王位奪還の血生臭い争いも、国の衰退にも、季札は平然とし、どこか超然として予言者のような風貌を見せる。この春秋時代全般的に、王位継承に基づく様々な血で血を洗うようなひどい事件が続くが、季札はそういうものを嫌ったのだろうか。ただ、そんな世界で名声を思うままにし、決して争いに加わらず、身分が高いのに身の危険を一度も感じられない生き方ができた唯一の人物であろう。

 

最後に、呉越春秋から、余昧が亡くなり、とうとう順番で季札が王位を受けねばならなくなった際、季札が言った言葉がある。

「吾不受位、明矣。昔前君有命、巳附子臧之義、潔身清行、仰高履尚、惟仁是処、富貴之於我、如秋風之過耳。」

(私が国王の位を受けないのははっきりしている。以前、父寿夢が私へ王位を渡そうとした際にも話したように、曹の子臧のように私も義理を守りたい。そして身を潔くし、清廉な日々を送り、高い人格を望むように生き、ただ仁を全うするようなところに身を置くことが私にとっては一番なのです。富貴などは、私にとって耳にそよぐ秋風のようなものです)

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中国 泰山

蘇州には何度も旅行に行ったのに写真データが見つからず…代わりに泰山の写真をアップします。

※文中に表記できない繁体字簡体字は日本で通常使われている漢字を当てています。

※参考文献

 〈日本〉全釈漢文大系 春秋左氏伝 上・中・下 竹内照夫 集英社

     春秋左氏伝 上・中・下 小倉芳彦訳 岩波文庫

 〈台湾〉呉越春秋        趙曄著 張覚訳注 臺灣古籍出版社

     公羊伝        三民書局

     新譯 越絶書     三民書局

 〈中国〉中国史学要籍叢刊 左傳 上・下 上海古籍出版社

※最後に、ここに記すのはあくまでも私見である。