空のなごり

経験、思ったこと、共感できることなど書いてみました。

3.1 旅行(中国の小吃)

※3から始まるものは趣味(旅行など)について書きます。

 

中国語を習ったことや、古代中国が好きでたくさん中国旅行をしました。

面白い場所や興味深い遺跡、楽しい人々にもたくさん思い出がありますが、私は地元の人が行く小さい食堂で食べるのが一番好きです。

中国人はおいしい所じゃないと並ばないので、人が並んでいる店は絶対おいしいです。

人でごった返した、小汚いお店がおいしいし、楽しいんです。

でも、……残念なことに、店の人は愛想がありませんが…。

 

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大連の朝市で食べた油条と豆腐脑 ※現在朝市はありません

一番のお気に入りは油条です!これに豆浆か豆腐脑ついていると最高!

中国における定番の朝ご飯です。

日本にいる中国の友達に油条作ってと頼んでも、面倒だからって作ってくれませんでした。

薬膳の授業で自分で作ったのですが…いやはや、こねるの大変、揚げるの大変。たしかに難しいですね。

中国の朝市で屋台で作っているのを見ると、本当に手際が良くって上手なんですけど、自分で作るのは大変です。

 

それから茶蛋(写真ありませんでした)。これも屋台で売られている茶葉と漢方薬で煮込んだゆで卵。

自分で作る時は中国で購入した茶葉卵の元みたいなのを使います。

台湾ではコンビニで売っているから、台湾に行った時は必ずコンビニ寄って買いますね!

中国人に「茶蛋が好き」というと、は?って顔されます。そこまで?って感じです。

でも、「油条が好き」というと、「君は中国人だ!」と言われます。それだけ、中国圏内しか食べる人はいないものなのかも?

 

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香港で食べた魚介粥

あとは中国粥(日本人から言えばこういう言い方になりますが)。日本のお粥との違いは味がしっかりついているということかな。

粥専門店。最高です。旅行先で見かけたら絶対行きます。

一番おいしかったのは、香港の湾仔の小道にあった小さなお粥店で食べた魚介のお粥。

日本以外の国では、お魚料理は骨もついたままなので注意が必要ですけど。

お粥をたくさんすすりたいのに骨まで入ってくるので…苦労しましたが、味が美味。

旅行後、自分で作ったけれど、同じ味が出せませんでした。日本と出汁の取り方が違うんでしょうね…。

1.7 放射線治療

放射線治療は5日×5週間行われました。

放射線治療は、手術で取れきれなかった小さい異形成細胞と新たに形成される細胞を殺すことで、乳房にあるガン細胞をすべて削除する治療です。

継続的に放射線を患部に当てないといけないので、病院が開いている平日は毎日続けて通わないといけません。

私は職場に相談をして、午後に休暇を取り、夕方病院で治療を受けることにしました。

病院によれば、放射線治療は好きな場所の病院で受けてもいいということだったので、職場に近いところなど検討しましたが、結局手術を受けた病院で受けることにしました。

 

手術前に放射線科で事前に治療箇所のチェックを行いました。

その際、放射線を当てるために胸に+や-の線をマジックで書かれるのですが…本当にそれが悲しくさせました。

 

 放射線の先生から、放射線を当てると、肌が痛むので、下着はできるだけ刺激のないものにしてほしい。ノーブラにしてほしいと言われました。

仕事する以上、ちょっと大きめサイズの胸の私にはノーブラはきついので、

 ユニクロのブラトップ

を使うことにしました。

ただし、ブラトップをそのまま使うと、乳房の下側にしっかりゴムがついていて、そこが圧迫し、傷つける可能性があるので、切れ目を入れました。

ブラの真ん中…∞を〇と〇に分けるように真ん中に切れ目を入れる

側面(わきの下)のブラ部分の生地に切れ目を入れる

こうすると、胸の上にパットが乗っかるだけの形になり、圧迫が無くなります。

今は、もっと機能的な下着もあると思うので、いろいろやり方はあるかもしれません。

 

放射線治療を進めていくと、放射線の当たる個所がだんだん茶色くなり、肌が乾燥してきます。

いろいろ調べたところ、本当か不明なのですが、フランスでは放射線治療の際、乾燥防止のためにティーツリーのエッセンシャルオイルの入ったオイルを塗っているとありました。

乾燥した肌でも、特にわきの部分が傷みやすいところで、ここから肌が切れたり、血が出たりするとあったので、私は放射線治療の直後、服を着る前に、オイルを塗るようにしました。

治療の最後の1週間で、先生からピンク色の保湿用クリーム(有名な美容液にもなるという某保湿クリーム)を処方してもらいましたが、オイル

のおかげで私には不要でした。

 アルガンオイルを25ミリリットル

 ティーツリーのエッセンシャルオイルを5滴くらい

を混ぜて使いました。

ティーツリーは万能ですね。放射線を受けるまでは知らなかったオイルですが、今では常備薬のように使っています。

※あくまでも私が自己判断で使ったものです。参考にする際はご注意下さい。

 

治療は放射線の部屋に入り、着替えて上半身裸になり、機械の上に横になると、先生が私の体に記された位置を合わせます。そして機械が左右上下に動いて2,3分くらいで終了。

若い男性の先生が二人がかりで、対応されるので、なんか嫌な気分でしたが…。

5週間。きつかったです。お風呂に入るときも印が消えないようにしないといけなかったし、仕事も中途半端だったし…。

癒されたのはティーツリーの香りだけでした…。

1.6 放射線治療についての検討

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牡丹。近くのお寺で咲いていたものを撮影。大輪の花は綺麗です。

放射線治療について、私は前向きにはなれませんでした。

担当医の先生にはするかしないかの結論は待ってほしいと答えました。

私の乳がんは「非浸潤性乳管がん」で、本来はガンではなく、「前がん物質」であり、乳がんだけ、ガンでなくても、乳がんという名前が付くものでした。

だから、通常のがんと同じ治療行為の放射線治療することに懐疑的でした。

 

そこで、図書館、専門サイトで情報集めしました。

非浸潤性乳管がんについて、基本的な情報は

・前がん物質であり、放置した場合、ガンに変わる(いわゆる他細胞に浸潤して転移を  始める)か、その前がん物質のままで推移するのか研究中であり、まだ分からない。

・基本的に約9割方の予後は良好であり再発は極めて少ない。

・最新情報(2016年当時)では、非浸潤性乳管がんの治療行為については過剰治療行為の可能性もあるとの議論が海外で起こっている。

 

また、私は日本の医療について不信感があり(あくまでも個人的な意見です)日本で行われている治療行為が遅れているのではと思っていて、海外の情報を検索しました。

今は、海外の医学論文を有志の方が翻訳し、最新情報が手に入ります。

それによれば、非浸潤性乳管がんの治療における放射線治療について

・過剰治療と考える医師と少しでも再発の可能性があるのなら治療すべきと考える医師とで意見が分かれている。

・非浸潤性乳管がんをそのまま放置した場合、どのくらいの割合で浸潤性乳がんに変わるのか研究中であり、詳細なデータがなく、全く不明

・海外でも、基本的に放射線治療を勧めているが、今後は変わる可能性がある。

ということでした。

 

ここで総合的に放射線治療のメリットデメリットを検討しました。

〇メリット

 ・放射線治療によって、検査で発見できない微細なガン細胞を死滅させ、再発や別のがん発生を取り除くことができる。

 ・世界的に標準となっている治療

〇デメリット

 ・放射線を受けることにより、その部位の細胞が傷つき、肌や乳管が再生できず、傷んだ状態となる(妊娠しても母乳が出ない、皮膚が薄くなり、再度の手術は難しい等)

 ・治療中仕事を休まなければならない。(約1か月かかる)

私にとってはどっちもどっちでした。

正直、自分の体を放射線にさらして痛めつけることにひどく心が傷つきました。これ以上体にダメージを与えない方法はないかと考えました。

だから、怪しげな民間療法を行うガン患者がいるのも分かります。助かりたい一心でそういった治療法を取るというより、身体を傷つけたくなくて、優しい治療をしたくなるんですよ。だって、もう手術で十分傷ついているんだし、これ以上、身体を痛めつけられますか?って思います。

 

結果的に私の心を押したのは「世界的に標準となっている治療」ということでした。

もしかしたら、20年後、50年後、「放射線治療なんて恐ろしい治療していたんだな。今はこんな有効な治療あるのに」という未来が待っているかもしれませんが…。現在に生きる私にとってはこれ以上の選択肢がないんだと思いました。

1.5 告知後の出来事

告知を受けた後、いろんなことがありました。

 

一番ショックだったことは、両親の態度でした。

ガンと告知されたと伝えたら、その反応が意外でした。

私は、両親から慰めを悲しみが返ってくると思ったのですが、返事は

「どうしてガンになったの」

「一人暮らしで生活が乱れてたんじゃないの」

「不健康な生活してたんでしょう」

「親戚にも祖先にも乳がんはいない」

「うちの子がガンになったなんて、人に言えない」

というもので、まるで私が悪いからガンになったと言わんばかりの責める言葉の数々…聞くだけできつくなりました。

私に対する慰めやいたわりは全くなく、この状態は1年ほど続きました。私もメンタル的にきつくなったので、途中、1年間ほど両親と連絡を断ったくらいです。

死に繋がる病気や問題が発生した時、他人はどんな行動に出るかわからないものだとつくづく思い知りました。

私の知人もガンになりましたが、やはり両親は冷たいようでした。こんなものなのでしょうか…?

子供が死に直面する病気になったという現実を拒否しているのかもしれないですね。

 

親しい友人の何人かに、ガンのことを話しました。

まるで他人事のような人もいましたが、3人ほど、心の底から心配してくれて、私を気遣ってくれる人がいました。

傷ついた時はやさしい言葉はうれしいものです。それも表面的なやさしさではなくて、本当の気持ちだと安心できます。

もちろん、その友人とは今でも大切な友達です。

 

職場の人の反応ははさまざま。

同じ部署の上司、先輩はとても親身に心配してくれて、本来忙しい部署に異動する予定だった私を楽な部署に異動させてくれました。また、治療に専念できるように、とても協力してくれました。

前回話しましたが、先輩の奥さんも乳がんサバイバーだったので、先輩は直接奥さんに話を聞き、私にアドバイスをくれました。それはとてもうれしかったです。

やはり、実際に経験した人の話、励ましは力になりますね。

ただ、トップの人は態度が違っていました。

飲み会で隣に座った時に、私がガンと知っているので、私にこう尋ねてきました。

「ところで、あなたさ、余命いつまでなの?」

当時、有名人の女性が乳がんで亡くなったので、話題になっていたからか、私が死ぬと思ったのでしょう。

「初期ですので、寿命はありません」

そう答えました。こういったデリカシーのない人もいるんですよね。

本当に悲しいことです。

 

心の慰めとしては

仲良し友達とのたわいもない話

動物番組(特に海外のペット番組)

好きな音楽(昔聞いていたやさしい音楽がよかった)

SATC(有名なアメリカのNY舞台の女性ドラマ)のサマンサの乳がんエピソード

心の栄養補給にとてもよかったです。こういうものがないと、ふとした瞬間に涙が出てきたりするので、本当にきついです。

2.1 きっかけ

吃音になったきっかけからお話しします。(2から始まる題名は吃音について)

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Canada.Banff. バーミリオン湖から眺めたランドル山

私は子供の時から吃音があり、それが生まれつきなのか、何か原因があるのか分かりませんでした。

吃音は身体的な障害ではなく、習癖であると医学書に書かれています。精神疾患の中で情緒に関する障害の部類に入っています。ですから原因も分からない、治療法も分かりません。

 

大学生の頃だったか、ある時、フラッシュバックのように小さい頃の思い出がよみがえり、それが原因で吃音になったのだと気づきました。

 

それは、私がまだ3歳の頃、一つ年上の兄が幼稚園への入園式を翌日に控えた日、両親が仕事に行っていて、私と兄の二人で留守番をしていた時のことです。

入園式前日で、私も兄も興奮していました。

そこで、白いふすまに、クレヨンや赤チン(赤い軟膏です)で好きなように絵を描きだしたのです。

すると、仕事を終えた母が帰ってきました。母は家に入り、ふすまの落書きを見て驚き、クレヨンまみれの私と兄を見て激怒しました。

その時、私は、悪いことをしたとは思っていなかったので、怒る母に謝りませんでした。

それが母の逆鱗に触れたのでしょう、私はひどく叩かれ、私が泣きわめいても止めてくれませんでした。

 

その一晩で私は、普段優しい母がこれほどまでに怒り、叩き、殴るということに衝撃を受け、言葉を失ったのです。

兄はその時、すぐに母に謝ったので、暴力は振るわれず、吃音になることもありませんでした。

 

翌日、兄の入園式に私は新しく買ってもらった赤いワンピースを着て参加しましたが、一つもうれしく思わず、ただ母にびくびくして泣いていました。

私にとって、その出来事は相当な衝撃で、それ以来、まともに言葉を発することは出来なくなりました。それまで、おしゃべりで、毎日楽しく何か話をしていたのに、もう口を開いても言葉がでなくなってしまったのです。

 

母は本来、やさしい人で、叩いたり、怒鳴ったりするような人ではなく、この時以外は一度も叩かれたりしていません。もちろん、悪いことをしたら叱ることはありましたけれど。

今思い返せば、そんな母もあの時は仕事で疲れていたのでしょう。小さい子供二人を留守番させていて、心配していたこともあり、また翌日の入園式を控えて、あれこれ考えていたのかもしれません。そこに、子供が家じゅうを汚したのですから…怒るのも当然だとは思います。ただ、私としたら、そのたった1回の暴力が私の人生を変えてしまったというのはひどく理不尽でしたね…。

 

私の発声がほかの子と違うと私自身が認識したのは小学生になった頃でした。自己紹介、国語の授業で、まともに言葉を言えなかった時、ほかの子と違っているのに気づいたのです。

当時、まだ昭和50年代。担任の先生も、私の両親も「変な話し方だな」とは思ったようですが、特に手当や治療されることもなく「そのうちに治るだろう」と思われ、放っておかれました。

でも、治らないんですよね。そんな簡単に治るなら「吃音」なんて病名ないですよね。

 

後日談ですが、社会人になって、昔話を両親としている時、私の吃音のこと、そのきっかけのこの事件のことを話しました。両親は涙を流して謝ってくれました。私は謝ってほしくて話したわけではなかったのですが…。

1.4 ガン告知

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大好きな花、プルメリア

手術はあくまでも細胞検査のためだったので、私は手術から2週間後に結果を聞きに病院へ行きました。

 

診察室の前で待っている時、たまたま、診察室のドアが大きく開いて、先生の顔が見えました。

その時、先生は私の顔を見て「はっ」とした顔をしました。

それは困惑したような、見たくないものを見たような様子だったので、私は結果が悪いものだと気づきました。

それまで、異常なしの結果ではないかと期待していたので、悪いと気づいた時、手足が冷たくなり、背中が震えました。

 

診察室に入り、先生と対面しました。

術後の経過、傷口の様子を話した後、先生は目の前の画面上に手術で採った細胞の画像を見せながら私に言いました。

「細胞の組織に異形成があり、初期のがんだということが分かりました」

「……」

「でも、心配しないで下さい。非浸潤性ですから、転移はありません。大人しいガンです」

「……」

「正式な名称は非浸潤性乳管がんと言います。上皮内ですから、ひどく心配する必要はありません。超初期で、ステージはつきません。でも、ガンですので、放射線治療は受けてもらいます」

「……」

「私の説明は分かりますか」

「……はい」

私はここに至るまでに、ネットでさんざん乳がんを調べていたので、先生の話は理解できていました。でも、心がついていけませんでした。

先生は今後の治療の予定を話し合う前に、一度、時間を取った方がいいと、また来週来院するように伝え、その日はそれだけで終わりました。

 

正直、私は平静に聞いて、歩いて、何事も無かったかのように診察室を出ました。

そして、結果を気にしている両親に「ガン」だったことを電話で伝え、絶句する両親を無視して電話を切り、いつものように公共機関に乗って家に帰りました。

勤めていた職場は、ちょうど異動先が決まる時期でしたので、とりあえず、上司にガンだったことを伝達し、明日普通に出勤するので大丈夫だと言いました。

 

家に到着し、一人、ベッドのふちに座ると、それまで冷静だったのに、はらはらと両目から涙が出てきました。

私のことを心配してくれている友人が何人かいたので、結果を知らせないといけないのに、元気が出ませんでした。

ただただ「ガンだったんだ。私はガンだったんだ」と心に刻むばかりで茫然としていました。

 

上司から聞いたのか、同じ部署の先輩からラインに連絡がありました。

「僕の嫁さんも乳がんになったよ。手術からもう5年経った今は元気で楽しく生活しているよ。心配するな」

このセリフに涙が止まりませんでした。

1.3 手術

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手術した後の手

手術には4日間を要しました。

1日目 入院手続きと事前検査

2日目 手術

3日目 休養

4日目 退院

 

部屋は外科用の4人部屋でした。

私以外は長期入院している女性のようでした。

 

入院後、主治医から挨拶がありました。

若い女性の研修医を連れてきて、執刀医は彼女ですと紹介されました。

主治医が指示するので大丈夫とは言われましたが、手術回数が多いベテラン医の執刀を期待していた私は正直ショックでした。

簡単な手術なので大丈夫ですとの説明でしたが、さすがに研修医の前でこんなのは嫌だとは言えず、また逆にそれだけ軽い手術なのだから私は大したことないのかもと思ったりして複雑な気持ちでした。

 

女性の研修医さんは後から一人で私のところに現れ、自己紹介をし、何度も私を安心するように話しかけ、私の手術部位を触ってしこりが感じられないのに驚きながら、最後にはよろしくお願いしますと挨拶してくれました。

私の不安を察してというのもあるでしょうし、彼女にとっても初めての患者なので気持ちが入っていたのかもしれません。少しうれしかったです。

 

手術の日、両親が手術の時間に間に合わないと連絡を受け、たった一人で手術に向かう時の辛さと言ったら…。本当に悲しい気持ちでした。

手術台に仰向けになり、手術する側は右の乳房だったので、右腕を真横に広げた状態にされました。そして麻酔をされたのです。

気を失いながら、自分の胸に心の底からさようならと告げました。

 

手術前に最後の姿を残しておこうと胸の写真を何枚か取りました。

傷のない姿はそれが最後になるでしょうから。

 

手術は2,3時間だったと思います。

気づいた時はぼんやりしていて、母の声がしていました。

はっきりと目が覚めた時、肩から首のあたりがひどく寒くて、そばにいた母に「上着を取って私の首のあたりにかけて!!」と何度も叫びました。

手術が2月だったので、フリースの暖かい上着を持ってきていたのはいいアイデアだと思いました。

 

私は手術後の説明は受けていないのですが、両親は私がまだ眠っている間に主治医から説明を受けたらしく、切り取った部位や手術の様子について聞いていたようです。

3~4センチ四方切り取られ、その中心部分に赤い塊があり、それが問題の部位だったそうです。

 

傷口は全然傷みませんでした。大きな包帯が巻かれていましたが、退院するときに外してくれて、胸を見ると、3センチくらいの一本線が走っていて、胸の大きさが変わったようには見えませんでした。

筋肉部を糸(体内に吸収されるもの)で縫合し、そと側の皮膚はおおきなセロテープみたいなものでしっかり張り付けてありました。

これをすると縫合部がきれいに塞がるということでした。

退院する時はいつもと変わらない元気さで、特に不自由することもなく、心配する両親が車で送ってくれました。(私は両親とは別に一人暮らしをしているのです)