空のなごり

経験、思ったこと、共感できることなど書いてみました。

1.14 感染しました。

ここ最近コロナの感染が増えていて怖いなと思っていたら、感染しました。

私は、以前乳がんになったので、あまり日本の医療を信じていないため、ワクチン接種していませんでした。

そんな状態で罹ってしまったのですが、無事に今、元気に復帰しております。

そこで、実際どうだったのか書きたいと思います。

 

金曜日(発症前日)

朝、喉が痛いなと思ったけれど、熱もない、ちょっと喉が痛いだけだったので、特に気にすることもなく、出勤し、仕事をしました。そして、家に帰って夕食をした時、急に寒気が襲ってきました。怖くなったので、家にある麻黄湯を飲み、温かくして寝ました。

 

翌土曜日(発症1日目)

朝、ひどい喉の痛みで目が覚めました。唾を飲み込むことすら痛いというレベルです。心配になって体温を測ると、38.4度でした。びっくりして、発熱外来に行かなければとネットで調べ、連絡取ろうにも喉が痛く、声が出ません。(私は一人暮らしなので)最終的に友人に頼んで、片っ端から連絡してもらい、何とか一か所病院を予約できました。そして、友人運転の車に乗り、窓全開にされ、運転席を見るなと言われるまま、病院に到着するまでずっと苦しい気分でした。到着してから10分ほど待たされてやっと診断してもらいました。しばらくして、抗原検査の結果を先生が持ってきて、「ほら、ここのTってところに線が入っているでしょ、陽性です」と言われました。まさかコロナとは思ってなくて本当に驚きました。

先生に処方してもらったのは、頓服(カコナール)、喉の炎症止め、トローチ、うがい薬だけでした。私は発熱以外にのどの痛みしかなかったので、先生が言うには「軽症」であり、自宅療養ということでした。そして「保健所は忙しいので、保健所からの連絡は数日かかる」と言われました。

メールで職場に連絡し、コロナに感染したこと、当分の間出勤できないことを伝えました。

友人が私のために食料を買ってきてくれました。経口補水液、お粥、雑炊、チキンラーメン、ゼリー、茶わん蒸し、かき氷、アイスクリーム、バナナ等(涙)

 

発症2日目(日曜日)

熱は38.4と変わらず、喉の痛みも全く変わらない。薬は昨日から喉の炎症止めと、うがい薬のみ。カコナールは39度を越えたら飲もうと考えました。

昼過ぎくらいに保健所から電話。「10日後に隔離解除。軽症のため、このまま自宅待機にするが、悪化した時は診断した病院に連絡すること。厚労省のサイトに登録して、毎日の体温や体調を記録すること。現在多忙のため、毎日電話できないのでそれをもとに保健所は体調に異常ないか見る」ということだった。この日は一日喉が痛くて食事が進まず、やっとのことでお粥が食べられる程度、ゼリーですら痛い。

眠っても喉の痛みで夜中に目が覚めるので、マヌカハニ-をなめる。そうすると朝まで熟睡できることが分かった。

保健所と厚労省からスマホにショートメールで感染者向け専用サイトに登録するよう指示が来た。布団に包まりながらスマホをいじり、登録。簡単にできる。パスワード設定とかがやっかいかな。

 

発症3日目(月曜日)

熱は37.7度と落ちてくる。喉は相変わらず痛い。食欲はあるのだけど、喉が痛いので、お粥、おじや、せいぜいチキンラーメンしか口に入らない。薬は喉の炎症用のみ。

 

発症4・5日目(~水曜日)

熱は37.5度を下回るが平熱にはならず。発症してから初めてお風呂に入る。やっとすっきり気分でうれしくなった。喉の痛みは相変わらずだが、かき氷やゼリーが食べられるようになりました。

 

発症6日目(木曜日)

熱は36.8度。喉の痛みも緩和。唾を飲んでもそこまで痛みはない。ただ「ぽんジュース」は飲んだらひどく傷んだ(涙)まだ喉の炎症用の薬とうがい薬を服用

 

発症7~10日目(月曜日)

熱は平熱になり、喉も完治。喉用薬の服用を止める。ちょっと痰が絡むので、漢方薬の麦門冬湯を服用。軽く咳が出る程度。ほとんど生活に支障はなし。

最終日、保健所から、私の酸素飽和度が低い(91%)と心配する電話がかかってきた。(酸素飽和度は厚労省のサイトで毎日入力していた。私はスマートウォッチで測っていた)実際、私は息が苦しくなく、元気いっぱいだったので、部屋の掃除と洗濯、使ったタオルなどを洗って日光消毒をしていた。私の元気な様子を電話で聞いて、保健所の担当者は安心したようで、「このまま解除としますね」と言ってくれた。

 

自宅療養以後。軽い咳が時々出る程度。痰は2,3日で消えた。少し体力を消耗するようなことをすると、頭が重くなったり、肩がこわばる感じがするので、その時は葛根湯を飲むようにした。

 

令和4年8月13日現在、解除となってから2週間ほど経つが、元気である。

感染経路は正直全く分からない。私は職場との往復だけで、飲み会も、知らない人との濃厚な接触はない。人との接触は職場内、通勤時の交通機関、スーパーだけ。気になるのは職場で対応した来客。私と同じ対応をしたほかの2名もコロナに罹患した。その来客は目が充血していておかしな感じだったが、対応苦慮する人で、体温を測る行為ができなかった。しかも、私は近くで会話し、その時は布マスクだった。

 

私はワクチン未接種だったが、上記のような状態である。他の未接種の人、あるいは接種の人、それぞれ体の反応は違うと思うので、もし、罹ったとしたら、診断した医師にくわしい症状を伝え、最低限の薬を処方してもらうことがいいと思う。悪化した際はできるだけ早く病院へ行くしかないのではないか。

職場の他の2名については、私ほど喉が痛くはなかったものの、熱が低くなったのが、3日後くらいだったようです。お二方ともワクチン2回接種済み。ただ、皆さん家族と同居しているので、さまざまな要因があるのかもしれません。解除後、お一人はひどく痰が絡む咳が残り(1週間くらい続いたようです)、もうお一人はもともと耳が弱かったのが悪化したとのこと。

酸素飽和度のためにパルスオキシメーターを郵送すると保健所は言ってくれたのだけど、私はスマートウォッチで計測可能と言って断った。だが、飽和度が低い表示があったため、保健所を心配させてしまった。実際スマートウォッチの計測が不安定だったのかもしれないが、今は98%なので、あながち、間違っていなかった?のかもしれない。しかし息が苦しいと思ったことはなかった。まあ、元気でよかったと思う。

 

なお、私は薬は喉の炎症用のものと、うがい薬、トローチだけで治った。眠るときにマヌカハニ―を舐めて喉に当てるくらい。ほとんど自然治癒力だったと思う。だが、いい歳しているので、完全に治癒したか分からず、無理はしないようにしている。ちょっとでも頭痛、肩こりがあれば、こまめに休み、葛根湯を飲むようにしている。痰がひどい時は麦門冬湯を飲んだ。

先日、九州の湯布院に旅行に行き、「塚原温泉」という強酸性温泉に入った。体がすっきりした。腋にある小さなイボがなぜか取れていた。コロナとは直接関係はないが、温泉後、身体が軽くなったような気がする。疲れが取れない時は近くにいい温泉があれば入るのもいいかもしれない。

 

最後に、ワクチンについては、数週間後、予約をしている。私は従来型ワクチンなら接種してもいいと思っていたので、ノババックス製のワクチンを5月に電話をして予約していたのだ。周りから、本物のコロナウイルスに感染したのだから、立派な抗体できているはず。今更ワクチン打つの?と言われたのだが…予約した以上、とりあえず受けにいくつもりだ。

ニュージーランド クイーンズタウン

早くコロナが終わって海外旅行行けますように……!!!

 

追伸。

ワクチン接種に行ったが、診断の時にコロナに感染したと話をしたら、医師から抗体値が一番高い時期(感染してから3週間経った時)だったので、ワクチン接種のメリットが無く、抗体もこれ以上高くなることはない。と言われ、結局接種しなかった。医師は感染後3か月経ったら抗体が減ってくるので、その時にワクチン接種すればいいと教えてもらった。というわけで、今回は接種しないままとなった。年末くらいに接種しようかと思っています。

4.8 春秋左氏伝 美しさの裏側(夏姫の場合)

※4から始まるものは春秋左氏伝について書きます。

 

春秋の歴史の中で有名な女性といえば夏姫(かき)である。

名前の由来は、夏姓の男性に嫁いだ姫姓の女性という意味である。

なお、呉の夫差の美人妻で有名な西施は春秋末期の人だが、左氏伝には記載はない。

 

夏姫は近世では小説のモデルになり、妖婦のようなイメージで表現されている。実際、彼女の行動履歴を見ると「妖婦」と言えなくもないが、それは(私は女性なので)男性側の言い分のような気がする。彼女のように男性遍歴が多い人は昔から現世まで多数居て、正直、誰しも身近な女性に似た人が思いつくだろう。だから「妖婦」というのは言い過ぎで、男性に対してルーズと言う方がよほど彼女に合っていると思う。

春秋左氏伝中、結構男性関係が奔放ではないか?と思える女性はほかにも数名いるのだが、彼女だけが抜きんでて目立つのは、相手の男への影響が甚だしさからだろう。しかも、彼女にはダメージが全くない上、殺人行為が行われていても、気に留めない鈍感さがあるところが特筆すべき点だろう。

 

〇春秋左氏伝における記述

宣公九年(600BC)

 陳の霊公、大夫の孔寧、儀行父の3人は、夏御叔の妻である夏姫と密通していた。そして3人は朝廷で(密通中にもらった)彼女の肌着を互いに見せあいこしてふざけあっていた。それを洩冶(せつや)が注意したところ、大夫の二人は霊公が制止しないことをいいことに洩冶を殺してしまった。

 

宣公十年(599BC)

 夏姫のいる夏邸で霊公、孔寧、儀行父の3人は宴に参加していた。そこで、霊公は儀行父に「夏姫の子の夏徴舒(かちょうじょ)はお前に似てないか」と言い、儀行父は霊公に「あなたに似ていますよ」と言った。その会話を聞いた夏徴舒は憤慨し、宴を終えて帰る霊公を厩の陰から矢で射って殺した。

霊公が殺されたのは、夏姫との密通話題のせいだと分かった孔寧と儀行父は楚に逃げた。

 

宣公十一年(598BC)

 (孔寧、儀行父が逃げ込んだ)楚の荘王は、内乱の起きた陳に攻め込み、霊公を殺した理由で夏徴舒を討ち、殺した。その時、陳の領土すべてを取ったことから、家臣の申叔時に咎められ、陳を再興するために、晋にいた陳の公子を陳の君主をして戻し、成公とした。そして孔寧、儀行父も陳に戻った。

 陳に攻め入った際、夏姫を気に入り、楚の荘王は後宮に入れようと考えたが、申公巫臣(しんこうふしん)に「陳の霊公が殺された復讐として諸侯を集めて攻めたのに、今回陳の内乱の原因である夏姫を娶れば、他の国に示しがつきませんよ」とたしなめられ、諦めた。すると子反が「自分が夏姫をもらう」と言い出したので、再び巫臣が「あの女のせいでどれだけの男が死んだのですか。そんな危険な女を娶ったらまともな死にざまはできません。他にも美人はいます」と言われ、子反も諦めた。

 結局夏姫は連尹(れんいん…楚の官職)であった襄老(じょうろう)の妻となった。

 

宣公十二年(597BC)

 陳の霊公の葬儀が行われる。

 楚と晋の戦いにおいて、(夏姫の夫となっていた)襄老が戦死する。

 

成公二年(589BC)

 夏姫は夫の襄老亡き後、その子の黒要から妻となるよう迫られていた。

 申公巫臣は夏姫と結婚したいと考え、彼女に「鄭に帰りなさい。私が妻に迎えるから」と告げ、結婚の準備を整えるため、こっそり鄭の襄公から婚儀の許可をもらう。そして彼女が鄭に帰られるよう、鄭から「夫であった襄老の遺骸を(晋から)取り戻すから、一度鄭に帰るように」と連絡させた。

 夏姫は「鄭から帰国の要請があったので、鄭に帰ります」と楚の荘王に告げるが、荘王は不審に思い、巫臣に相談する。すると彼は「(晋と仲の良い)鄭を利用して(昨年戦った)晋から襄老の亡骸と人質を取り戻すチャンスですから、いいと思います」と答えた。そこで、夏姫は鄭に帰ることになったのだった。

 夏姫は帰り際、見送りの者に「元夫の亡骸が戻ってこない限り、楚には帰りませんからね」と言った。その裏で申公巫臣は鄭の襄公から夏姫との婚姻の許可をもらっていた。

 このころ、斉は晋に攻められていたので、楚に救援を依頼していた。荘公は申公巫臣を斉に援軍の使者として向かわせることに決めた。

 さて、斉に使者として向かっていた巫臣だったが、その姿を目撃した申叔跪(しんしゅくき)は「まるで誰かの妻を寝取りに行くようなウキウキした様子」を感じ、不審に思う。

 案の定、巫臣は斉に使者として向かわず、部下を行かせ、自ら鄭へ行き、夏姫を迎えると晋へ行き、邢の大夫に任命された。

 

成公七年(584BC)

 巫臣に恨みをもっていた楚の子反や子重は巫臣の一族と黒要を殺した。

 それを知った巫臣は怒り、晋の景公の許可を得て呉へ向かい、呉の寿夢に知識を与えた。後に呉は勢力を付けて楚を攻めるようになる。

 

 

〇夏姫に関わった男性の運命

 夏御叔(最初の夫)…不明だが、病死であろう。

 陳の霊公(浮気相手)…夏徴舒(夏姫の子)に殺される。

 孔寧、儀行父(浮気相手、陳の家臣)…朝廷でのふるまいを注意した洩冶を殺害、国を一時的に追われる。

 襄老(二番目の夫)…晋との戦争中に戦死

 黒要(襄老の子、夏姫と密通しようとする)…巫臣を恨んだ子反らに殺される。

 申公巫臣(三番目の夫)…親族を子反らに殺される。

 最初の夫の状況がはっきりしないが、生きている間にほかの男と浮気されているので、いい状況ではなかっただろうと想像する。

 彼女に関わって死亡した者は4人以上。

 この流れから見て、出会った男を不幸にする女となってしまっているのだが、彼女は亡くなった後までも男を不幸にする女としてのレッテルを貼られている。

 

 昭公二十八年(514BC)から

 晋の叔向が妻をめとることになり、その妻というのが、巫臣と夏姫の間の娘だった。叔向の母は「あの女(夏姫)は、兄(鄭の霊公)が若くして殺されたことで、天から美を与えられて世の中に災いをもたらすようにしたもの、その血を受け継ぐ娘と結ばれたら、うちの羊舌(ようぜつ…叔向の家)家が滅びます」と忠告する。結局君主の意向で叔向はその問題の娘と結婚することとなり、伯石が産まれる。予言どおり、伯石は問題を起こして殺されることとなり、羊舌一族は滅亡するのだった。

 

 叔向は賢者であり、晋は彼のアドバイスでいい状態を保つのだが(もちろん他にも名臣はいるが)そんな一族を夏姫の血が滅ぼすというのは怖い話だ。この逸話は、後世の人に美女には気を付けなさいという戒めのために作られたのだろう 。

 叔向の母は「美しさは大きな災いを呼ぶ」と忠告し、以下のセリフを加える。

 夫有尤物 足以移人 苟非徳義 則必有禍

 →美に秀で、人の心を捕える者は、仁徳の厚い人でなければ、必ず禍があるもの

 

 乱世の中、欲望のままに生きる権力者が多くなると、美女というものは奪い合う対象になる。そして美女の夫というのは殺される危険性を孕むということになる。危険を回避したければ、美女にはかかわらないのが賢明なのだ。

 誰でも美しくなれる現在…ここまで美が危険性を孕むとは想像できないが、世の中の流れ如何で美は死と隣り合わせとなるのだろう。

 

〇申公巫臣について

 申公というのは申という楚の中に併合された小国の領主という意味ではないかと考える。資料がないのではっきりしないが、他の併合された小国も同様の表現がされているためだ。巫臣というのは名前なのだろう。楚の荘王の時にご意見係のような位置づけで彼は登場している。特段有能か分からないが、他の自己保身の強い家臣の中では比較的理性的な臣下のようである。本件の夏姫に関して、彼は自己中で彼女の色気に迷い、彼女のために楚での身分を捨て、晋に渡った男として記載されている。

 しかし、本当に彼の目的は夏姫だったのだろうか?

巫臣は楚の荘王に仕えていたが、彼が夏姫を伴って去った後は楚の共王に変わっている。王が変わると部下も変わるので、新しい共王のもとでは重用されないと考えて去ったとも考えられる。

 また、当時、楚は晋と覇権争いをしており、間に挟まれた衛や鄭はどっちにもいい顔をしつつも、領土を削られたり、無理難題を言われたりして苦労していた。

 夏姫は鄭の姫君である。当時の襄公の腹違いの妹となる。鄭とすれば、陳の君主や楚の荘王が気に入り、妻にしたいと思う夏姫は利用価値の高い女だったのではないかと思う。

 鄭はもともと晋側についていたが、楚が南方から攻めてきて、楚にもいい顔をしなければならず、微妙な立ち位置にいた。

 申公巫臣が鄭の襄公に口利きをして夏姫を得るという話になっているが、もしかしたら、実態は、鄭から巫臣に話をしたのではないかとも考えられるのである。

 晋につけば楚につけこまれるのだから、楚の力を削ぐ方法として、有能な巫臣を夏姫の夫とすることで、楚から離反させることを考案したのではないかと考える。

 巫臣は始め、移動先として斉を考えたが、戦に負けたばかりの状態だったので、晋を選び、晋の臣下となっている。

 その後、呉に知恵を授け、楚を背後から攻めるようにしているのだ。

 結果的に楚はマイナスの状況となっている。鄭の夏姫を使った策略は成功したのだ。

 夏姫に惚れた男たちの振り回された事件というより、背後に国家が糸を引いていると考える方がしっくりくるのだが…どうだろうか。

 美女は中国の歴史上、戦略に使われることもある材料だ。英雄色を好むと言われるが、単純に色を好むだけだと、安易に策にはまりやすい。美女に注意しようというのは正しい忠告なのだろう。

 

〇洩冶の注意はなぜいけなかったのか。

 陳の宮中で、霊公や孔寧、儀行父が夏姫の下着を見せあってふざけている姿を見て、大夫である洩冶は霊公に注意をする。

 これをよく思わなかった孔寧と儀行父は霊公が反対しないのをいいことに、洩冶を殺すのだが、この洩冶の行為について、孔子

「詩云、民之多僻、無自立辟、其洩冶之謂乎」

 というコメントを残している。

 詩とは詩経のことで、大雅「板」の第六章に「民之多僻、無自立辟」が載る。

 大雅とは、周王朝における祭事を行う際の最後を締めくくる歌であり、重要で高貴な歌となっているようだ。その中に孔子が指摘した一文が出てくる。

直訳は「国民の中で悪いことがはびこっている時に、国を治めるものが勝手に厳しく取り締まってはいけない」となっている。

今回の洩冶の行為については、宮廷で君主自ら乱れたことを行い、その家臣もそれに乗じて悪いことをしている中で、一人、正しいことを言うことは辞めた方がいい…というものだ。

孔子ってもっと正しいことを求めるのではないの?と思っていると、こういう言動もあり、悪いことをはびこっている時はほっときなさい…というある意味、正しいことより身を守ることを勧める意外な一面を見ることができる。上手に世の中を渡っていきなさいということか。

 

〇まとめ

 夏姫はそんなに魅力的だったのか?という疑問が湧くが、鄭は貿易立国で商人が多く、美女を産出する国としても有名だった。彼女もそれなりに美しい人だったのだろう。何人もの男性を篭絡し、関係する人が殺害され、50代後半?で出産もしている。稀世の妖婦として春秋時代に名前を残した。

 彼女の存在というものは、男主体の乱世の歴史の中、権力も金もないのに、ただその美貌だけで、国を左右できたというすごい能力があることを歴史上証明した。いやはや、美女の笑顔だけで、一族が滅んだりするんだから、怖い話である。

 私は、もし、この春秋時代で誰に産まれたいかと言われたら、夏姫の侍女を希望する。身の危険もなく、豪華な生活ができて、諸国を旅することができる。やることと行ったら、彼女のお世話だけ。そして彼女に翻弄される男を見つつ、歴史の流れなんて、こんなことで決まってしまうのかと妙に冷めた目線で世の中を達観したような気分になるんだろう。こっそり「夏姫侍女日記」なるものを記して悦に浸っていたりして。

 中国の歴史は英雄だけの歴史ではなく、非力な女性の能力が背後で歴史を動かしていたのだ。

河南省 新鄭市 鄭王陵博物館

鄭王陵博物館内の鐘(当時の楽器)

15年ほど前に新鄭市へ旅した。小さな市街地の中、一番きれいに整備されていた鄭王陵博物館。受付した時、担当の女性はお昼ご飯を食べている途中だったが、快く中を見せてくれた。当時は生身の馬、人、馬車などなどすべて埋めていた。これでも春秋時代の小国の王の墓である。鄭は商人が多くおり、音楽も発達した。綺麗な鐘の音とともに美女が躍り、宴会が行われていたという。夏姫もこのような生活をしていたのだろう。


※文中に表記できない繁体字簡体字は日本で通常使われている漢字を当てています。

※参考文献

 〈日本〉全釈漢文大系 春秋左氏伝 上・中・下 集英社

     春秋左氏伝 上・中・下 小倉芳彦訳 岩波文庫

     漢詩選2 詩経 上・下 高田眞治 集英社

 〈中国〉中国史学要籍叢刊 左傳 上・下 上海古籍出版社

※最後に、ここに記すのはあくまでも私見である。

4.7 命より真実(無名の大史の場合)

※4から始まるものは春秋左氏伝について書きます。

 

前回4.6で斉の崔杼について書いたが、彼が登場する左氏伝の記載の中に無名の大史の話が出てくる。

大史とは国の歴史に関わる記述を歴史書として残す官僚のことで、有名な人では後世の漢の司馬遷もその身分(なお、表記は太史であるが)である。左氏伝として残されている春秋の原文は魯の大史が書いたものだと思われる。その春秋原文に孔子なり、著述家なりが加筆して春秋公羊伝などに変わっていったのだろう。

つまりは、大史という官職は国の歴史を書き残して後世に伝える仕事を担っているのだ。

今回は命を失っても歴史の真実を書き残そうとした無名の大史について書きたいと思う。

ひどく短い文であるので、原文を載せる。

 

〈原文〉

襄公二十五年 (伝より抜粋)

(崔杼が斉の荘公を崔杼の邸で殺し、慶封とともに斉の実力者をなった後)

史書曰、崔杼弑其君。崔子殺之、其弟嗣書。而死者二人。其弟又書。乃舍之。南史氏聞大史盡死、執簡以往。聞既書矣、乃還。

 

〈現代語訳〉

(崔杼が荘公を殺して景公を立てたことから)歴史書を書く大史は歴史書に「崔杼がその君主を弑した」と書いた。崔杼はその大史を殺した。殺された大史の弟も同じことを書いた。そしてさらに二人も死人を出した。(弟で4人目の)大史まで同じことを書いたので、とうとう崔杼は諦めてそのままにした。南の地域に住んでいる別の大史が、都にいる大史が殺されたと聞いて、「崔杼弑其君」と書いた簡策(竹でできた細長い板。昔の人はこれに文字を記載し、革ひもで綴って一つの巻物にすることで書簡とした)を持って都へ向かった。しかし、(4人目の)新しい大史が書いたものが採用されたと聞き、もと来た道を引き返した。

 

〇「真実を書く」ということ

これは権力者が自分に都合の悪い真実を歴史書に残したくないことから、記述した官僚を次々に殺したという事案である。

崔杼は、民衆の目を気にする人物なので、荘公を殺した時にその場所を訪れた晏嬰を民衆に人気があるからという理由で殺さなかった。だからこそ、歴史書に「君主を弑した」と書かれるのはまずかったのだろう。

大史は官僚で、家柄が代々受け継ぐ官職のようである。そのため、職に就いた者が殺されると、その兄弟、あるいは息子が継ぎ、その官職を担っていた。今回、兄弟は4人だったのだろうか、官職にあった長男が最初に記述し、崔杼に殺され、次男も同じ記述をし、また殺され、三男も同じ記述をしてさらに殺され、最後の四男も同じ記述をしたが…とうとう崔杼は根負けしたようだ。

 

ここで思うのは、この兄弟の執念である。命の危険性があるのならば、「弑した」とせずにほかの文字で書けば殺されなかっただろう。しかし、それを彼らは許さなかったのだ。それは南大史の経緯にも出ているが、南部に住んでいる大史は、都の大史が殺されたと分かっていながら、同じ記述を書いた竹簡を手に持ち、都に馳せ参じている。もし、兄弟4人殺されたとなれば、この南の大史も同じ運命になる危険性があったはずだ。それなのに「弑した」記述にこだわる。それはいったい何なのだろう。

 

「弑した」というのは崔杼が君主に対して逆賊的な罪なことをしたという記述である。実際、崔杼には君主を殺す正当な理由はない。彼にとっては妻と不倫をして自分を馬鹿にしたという理由があるだろうが、国の歴史の観点からは「弑した」が「真実」なのだ。きっと大史らは「真実を書く」ということを自身の職業の誇り、信念としていたに違いない。それは命と引き換えになったとしても…ということだ。それは3人もの死者を出しながら、それでもなお記述するという行為に現れている。

 

しかし、大史が何人も殺されているというのに、斉の大夫達は誰も止めようとしなかったのか。そういう意味で、私は晏嬰だろうと陳文子だろうとあまり感心しないのだが。歴史書の重要性を唯一感じていたのが同僚の南部の大史だけだとは…あまりにも悲しい。

 

ちなみに春秋(魯の歴史書)の経の部分には「斉崔杼弑其君光」とあるので、斉の大史が書き残せなかったとしても、魯では書き残せたのかもしれない。

 

〇左氏伝の独自性

なお、この大史の経緯は公羊伝や穀梁伝に記述はない。この二書における重点は「なぜ崔杼は荘公を殺したのか。荘公は部下にどうしたらよかったのか」ということに置かれており、大史のような無名の官僚の経緯にスポットは当たっていない。

面白いことに司馬遷史記、世家の斉太公世家にはこの話がある。司馬遷が左氏伝を参照したことにも由来するだろうが、わざわざ記述しているのは、彼なりに大史という身分を意識していたとも考えられる。司馬遷はこの斉の大史についてどういう気持ちだっただろうか。

左氏伝は世俗的な話も多く、男女の関係、名前も残らなかっただろう身分の人のセリフ等出てくるのだが、この大史の話もその一つだ。

左丘明がこの悲劇の大史の兄弟を載せたのは、彼らの官職に対する忠実さや命の危険も顧みず、歴史書の記述の真実性にこだわった行為を賞賛したのだろうと思う。

そういう左丘明の好みが出てくる所が左氏伝の魅力と思う。

 

〇今思うこと。

2022年4月現在。ウクライナで戦争が勃発している。ミャンマーや香港で国の政府が国民を虐げるのを悲しい気持ちで見ていたが、まさか、他国を侵略することが起きるとは。平和というものがいかにはかないものか痛感する毎日である。

そんな中で報道を目にしていると、その「信憑性」「真実性」というものがいかに大切かというのも痛感させられる。

ある国では政府に有利な報道しかしない。これは日本が第二次世界大戦中にも似たようなことをし、国民をだましていたが、そういう手法はそれらの国々では今でも通常のことなのだろう。

その中で真実を報道し、形として残すというのがいかに危険かということはよく分かる。それに照らすと、2千年以上前の大史はよくやったものだと思う。国家の権力者の不都合な事実を国民に知らせ、後世に残す…それがいかに難しいことか。

ただ、当の国内で欺罔が行われていたとしても、良心ある国家がその事実を報道し、歴史として残すことができたら…それが後世に真実を残す唯一の方法か。

しかし、現実、今を生きている人が無残に殺され、虐げられているのは、本当に気の毒で可哀そうだ。何かしてあげたいと思っても難しいというのが歯がゆい。

 

※文中に表記できない繁体字簡体字は日本で通常使われている漢字を当てています。

※参考文献

 〈日本〉全釈漢文大系 春秋左氏伝 上・中・下 集英社

     春秋左氏伝 上・中・下 小倉芳彦訳 岩波文庫

     史記世家  上・中・下 小川環樹他 岩波文庫

     新釈漢文大系 史記(本紀)(世家)   明治書院

 〈中国〉中国史学要籍叢刊 左傳 上・下 上海古籍出版社

※最後に、ここに記すのはあくまでも私見である。

4.6 春秋左氏伝 驕り過ぎた者の末路(崔杼の場合)

 

※4から始まるものは春秋左氏伝について書きます。

 

崔杼(さいちょ)は斉で活躍した寵臣である。

斉は始祖を太公望呂尚とする国で、春秋・戦国時代を通して内乱、戦争が起ることはあっても、国土を極端に失うこともなく、秦が統一するまで細く長く生き続けた。

この国でも、大夫に強力な家系が多い。

今回はその中でも家柄がさほどでなかったにも関わらず、斉侯の寵愛を受け、大夫たちを押しのけて権力をほしいままにした崔杼を取り上げたい。

寵臣の中にも長く国王と近い関係を築き、子孫ともども繁栄を謳歌する者もいれば、この崔杼のように一気に命まで失ってしまう、そういう寵臣もある。

その差は何から生まれるのか。考えてみたい。

 

〇春秋左氏伝から抜粋

宣公十年 599BC

 斉侯(恵公)が亡くなる。重用されていた崔杼をよく思わなかった高氏、国氏の大夫達はこれを機に崔杼を斉から追放した。崔杼は衛に行った。

成公十七年 574BC

 斉侯(霊公)は崔杼を大夫に任命する。

襄公六年 567BC

 霊公は萊(らい)という小国を滅ぼし、崔杼はその土地の区画整理をした。

襄公十年 563BC

 崔杼は大子光(跡継ぎの王子で名は光)を連れ、鄭に各国が進軍した時に真っ先に参加した。

襄公十四年 559BC

 晋の悼公が主体となって秦に各国が攻め入った際、斉から崔杼が参加したが、態度が怠慢だった。

襄公十九年 554BC

 霊公は大子光を大子から外し、お気に入りの妻戎子が薦める牙を大子にして、その教育係に高厚、側近に夙沙衛(しゅくさえい)を任命した。

 霊公が危篤になると、崔杼は光を呼び戻し、戎子を殺して光を斉侯(荘公)にした。

 牙は郊外に囚われ、夙沙衛は高唐に逃げ、高厚は殺された。崔杼は高厚の財産を没収した。

 後、大夫の慶封は夙沙衛を捕らえるため、高唐を攻めたが、うまくいかず、荘公自ら攻め、高唐の人の協力で夙沙衛を殺害した。

襄公二十三年 550BC

 荘公は晋に攻め込もうとまず衛に攻め込んだ。

 晋は強大で、各国の盟主でもあるので、大夫の晏平仲(晏嬰のこと)や陳文子が戦争の結果を心配するが、荘公は言うことをきかない。崔杼も説得するが、だめだった。

襄公二十四年 549BC

 晋が攻めてきたと知った荘公は、楚に陳無宇(ちんむう)を行かせ、援軍を乞うようにした。それを崔杼は護衛して向かったが、途中で莒(きょ)の土地に攻め込んだ。

襄公二十五年 548BC

 亡くなった棠公の夫人だった棠姜が、美人だったので、崔杼が後妻にしていた。

 その棠姜は、荘公とも不倫しており、荘公は崔杼の邸に入って崔杼の冠などを取り、他人に贈ったりしていた。それを知った崔杼は憤慨し、荘公を殺害する計画を立てていた。

 莒の当主が荘公に面会に来た際、崔杼が病気で欠席したので、心配した荘公は崔杼の邸に向かい、見舞った後、不倫相手に会おうと棠姜の部屋に行った。しかしそれは罠で、その部屋に閉じ込められ、侵入者として殺された。

 荘公と共に崔杼の邸を訪れていた公の側近たちもその時に全員殺害された。

 崔杼は荘公の後継に景公を立て、補佐役になった。慶封を左相とした。

 荘公死後12日後に、崔杼は荘公を埋葬した。

 晋侯が衛の献公を衛に戻すため、亡命先の斉に家臣をやった。その時、崔杼は献公の妻子を人質に取り、衛の領土と交換するよう迫った。

襄公二十七年 546BC

 崔杼の子、崔成と崔彊(さいきょう)は前妻の子で、崔明は後妻の棠姜の子だった

 崔成と崔彊は崔明とその叔父らが父崔杼に取り入り、利用するので腹を立て、大夫で力を持っている慶封に崔明らを排除したいと相談をした。慶封は権力を持っている崔杼を除くいい機会だと思い、崔成と崔彊を利用することを思い立ち、彼らの崔明ら暗殺計画を支援することにした。

 そして九月、崔成と崔彊は、崔明の伯父である棠姜の兄らを殺害した。それを知った崔杼は慶封に助けを求める。慶封は援助すると言いながら、部下を派して崔杼の邸を攻め、その家財を奪うと、崔成と崔彊を殺し、棠姜は自殺した。

 何かも失った崔杼は自殺した。崔明は運よく逃れ、魯に逃亡した。

 最終的に慶封が斉のすべての実権を握った。

〇斉の実情

 斉は春秋の国の中で一番東に位置する国である。

 当時の大国は北の晋、南の楚であった。

 斉は晋ほどではないが、大国である。もともと晋と親しく、楚とは対立の立場で、魯、鄭、宋、衛という小国とは小競り合いを繰り返していた。

 崔杼が出てくる頃、斉は晋と仲たがいし、小国をどれだけ従えるか競争しているような情勢で、衛、莒などは領土を侵害され、晋や楚、斉との間で逃げ惑うばかりであった。

 崔杼は恵公の死後、頃公となった際、衛に追放されている。頃王の時代、斉は戦が多いものの、内乱は無く、善政を敷いていたと評してもいい。

 頃公の亡くなる時、霊王の母(頃王の妻)が家臣らと浮気をしたことが発端で内乱が起こる。そして霊公即位後、崔杼が大夫に返り咲いた。(いつ衛から戻ったのか記述がないため不明である)

 霊公の政治はいまいちだ。斉と晋が同じ国力だと勘違いし、晋と何度も戦争を繰り広げた。当時の晋は悼公という人望がある君主で、小国がなびいていた。そのため、斉が晋と戦っても旗色が悪い。

 霊公の後、荘公となるが、この跡継ぎ問題も波乱を呼び、崔杼のバックアップで大子光が最終的に斉侯(荘公)となる。荘公は父の影響か、大夫達が止めるのも聞かずに晋に立ち向かっている。

 荘公はその後、晋に対抗するため、南国の楚と仲良くなる。そして晋からの亡命者欒盈(らんえい)というお尋ね者を匿ったり、晋の隙を狙って戦をしかけたりしている

 そのため、魯から亡命して斉に来た臧紇(ぞうこつ)が荘公に向かってこんなことを言っている。荘公が晋と何度も戦ったんだと自慢した後のセリフ。

 「多則多矣。抑君似鼠。夫鼠晝伏夜動、不穴於寝廟、畏人故也。今君聞晋之乱、而後策焉、寧将事之。非鼠何如」

  →すごいことはすごいですね。あなたはまるで鼠だ。ご存じのように鼠は昼に寝て夜に活動する。そして人の寝室やお墓に穴を開けないのは人間を恐れているからです。まさにあなたは晋の内乱を聞くと攻め、晋が平和なら大人しく従順だったのでしょう。鼠じゃなかったら何でしょうね。

 荘公はこの言葉に気分を害し、臧紇に領土をやろうと思っていたが、止めてしまった。

 左氏伝ではこの臧紇は、荘公の将来を危惧して身の安全を図るためにわざと嫌われたと説明されている。わざととはいえ、当時の人物評価そのままなのだろう。

 荘公はその後、崔杼の妻との浮気が発端で死亡。その後を継いだ景公が斉侯となる。

 景公は崔杼、慶封亡き後、晏嬰が補佐し、盛り立てている。

〇崔杼と権力を二分した慶封

 斉には昔から大夫の家系である高氏、国氏、鮑氏がある。それ以外の大夫はあまり表にでてこなかっただけで斉の朝廷には存在していたようだ。

 慶氏は崔氏と同じくそのような家柄だったのだろう。崔杼が活躍した時期に急に表に出てくる一族である。

 慶氏は慶克から名前が出てくる。彼は霊公の母と不倫をしていた。それを目撃された国佐(国氏)、その仲間だった高無咎(こうむきゅう・高氏)、鮑牽(ほうけん・鮑氏)を二人で除外しようと企てた。結果、高無咎は他国に逃げ、鮑牽は刑に処せられた。国外で霊公と共に鄭を攻めていた国佐はそのことを聞くと、高無咎の子がいる盧を包囲している慶克を殺しに行った。結果、慶克は殺され、国佐とその子国勝は勝手な行動をしたので霊公から殺されたのだが、国氏の国弱が残った。そして慶克の子慶封が大夫となった。

 慶封は崔杼と同時期に霊公、荘公に仕えるが、諸侯の軍団が鄭や秦に攻め入る時に斉の代表として崔杼が採用されるのとは反対に慶封は政治的な活躍の場が見られない。荘公が立つときの内乱時に軍を出し残党を攻める役があったが全く歯が立たず、荘公自身が出てくる羽目になっている。

 崔杼が荘公を殺した後、慶封は実権を握り存在感を増す。そして崔杼が内乱で殺された後、棚ぼた式に斉の朝廷の最高権力者となる。

 しかし慶封は人格も才知も低かったようだ。

 権力者となった後の彼の生活は「田而嗜酒」狩猟と酒が大好き…そういう性格の人である。

 また、魯に使者した時、彼に対し叔孫穆子が詩「相鼠」を歌ってその態度を注意するが、慶封は詩を知らず、意味が分からない。

 崔杼を家庭の内乱を利用して殺した慶封だが、崔杼死亡から2年後、かれもお家騒動が起こる。息子の慶舎が殺され、魯に逃亡する。

 逃亡先の魯で、慶封は叔孫穆子の目前でまた不作法だった。穆子は困惑したのか歌い手に詩「茅鴟(ぼうし)」を朗読させてその作法を批判したが、慶封は詩の意味がさっぱり分からなかった。

 当時、詩は教養の一つで、前に紹介した季札や、この時代に活躍した外交官や重臣はすべて詩を理解し、暗唱していた。斉は大国である。その重臣である慶封がその詩に無知というのは恥ずべきこと…つまり、身分にそぐわない知能だったというわけだ。

 最後に慶封は魯から呉に逃れ金持ちとなるが…最終的に楚に攻められ、過去の罪を理由に処刑されてしまう。

 穆子が慶封に対してのコメントが面白い。慶封のこれまでの行いに反し呉で財産に恵まれていることについての彼の意見

「善人富謂之賞、淫人富謂之殃、天其殃之也。其将聚而殱旃矣。」

 →善人が富むのは賞と言い、淫人が富むのは災難と言う。天は慶封に災いを与えようとしているのだ。きっと悪道を極めさせて殲滅させるのでしょう。

 確かに、慶封の死も見せしめのような刑罰でひどい結末であった。

〇崔杼の後妻

 彼女の正式な名前はないが、棠姜、あるいは東郭姜と呼ばれる。

 棠(とう)は小国の名前で、斉の霊公から滅ぼされた。彼女はこの棠の君主の妻だった。彼女の姓は姜(きょう)で、棠の国に嫁いだ姜さんという名前。東郭(とうかく)は兄の姓なので、それに付随して東郭姜という名前でも呼ばれるのだろう。

 棠が滅んだ時(襄公六年567BC)、棠公が亡くなったので、その弔問へ行った時に崔杼は彼女にあい、その美貌に惚れている。

 崔杼は斉の丁公(二代目か?)の子孫。彼女は斉の覇者桓公の血筋なので、同じ家系(姜姓)である。そのため、同姓同士の結婚は止めた方が良いと、彼女の兄の東郭偃が反対する。

 そこで崔杼は筮を立てて将来を占うのだが、結果は「困」→「大過」という結果。絶体絶命のような状態から問題なく成果が出るという内容。一見いい結果のように見えるが、同じ斉の大夫である陳武子はそれを不吉だと言う。理由は下から三番目の爻(こう)が陰から陽に変わることから、上部三つの爻が表す長女を下部三つの爻の男が巽(風の意)に変わって吹き飛ばす相である上、「困」の六三(下から三番目の陰の爻のこと)の意味が不吉だと言った。

 ただ、崔杼は彼女に惚れていたのだろう。陳文子の忠告を無視して彼女と結婚する。

 当時、崔杼は50歳前後ではないかと思う。彼女は20代くらいか。崔杼との間に一子崔明を産むが、荘公とも不倫をしていた。きっと荘公は彼女と歳が近かったのでは?と想像する。

 荘公は彼女の邸に行くので、崔杼の持ち物を手に入れることができ、それを朝廷の場で他の家臣に下賜していたので、崔杼は荘公に憎しみを抱くようになった。

 最終的に、荘公は彼女と不倫しようと崔杼の邸を訪れた際、崔杼の罠にはまって殺される。

 しかる後、崔杼は前妻の息子の崔成、崔彊、そして棠姜との間の崔明、棠姜の兄東郭偃、棠公との間の子棠無咎の間の内乱が起こり、慶封の策により、命を失う。その際、彼女も自殺した。

〇殺害の連鎖

 栄華を極めた崔杼の死亡は彼が活躍した頃からの因果なのではと思う。

 人物の因果関係を分かりやすくするために箇条書きにする。

  ①崔杼は重用されていたが、高氏から追放された。

  ②崔杼が補佐していた大子光(のちの荘公)が廃され、公子牙が後継者に指名されるとその補佐役に高厚(高氏の一族)が任命される。

  ③霊公が亡くなると、崔杼は公子牙を追放し、高厚を殺害。

  ④崔杼が荘公を弑する。景公立つと崔杼と慶封が実権を握る。

  ⑤崔杼の家族内で内乱が起き、慶封は部下の盧蒲ヘツに相談すると「荘公を弑した  ので放っておけばいい」とアドバイス

  ⑥慶封は崔杼の内乱を利用して崔杼らを殺害

  ⑦荘公の臣下だった盧浦癸(ろほき)は慶封一家を殺害しようとするが、慶封は逃げる。

  ⑧呉に逃亡した慶封だったが、楚が攻めてきた時に捕らえられ、荘公を殺して景公をおろそかにして実権を握ったことを理由として処刑される。

 殺害の因果は怖いものだ。

 崔杼は斉侯(霊公)の信任厚く、諸侯の集まりや戦に参加するほどの重臣であったにも関わらず、その我が強すぎて命を取られてしまった。

 陳文子は、荘公が晋の隙ばかり狙って無謀な戦をするので、崔杼に相談した。すると崔杼は国よりも自分が大事だ。いざとなったら荘公を捨てようというような発言をする。それを聞いた陳文子の言葉。

 「崔子其将死乎。謂君甚而又過之。不得其死。過君以義猶自抑也。況以悪乎。」

 →崔杼はそのうち死んでしまうだろう。君主に対してそのひどさを指摘しておきながら、自分はそれよりひどいではないか。まっとうな死に方しないだろう。君主より自分たちが正しいと思っても、私たちはそれを指摘することを抑えるというのに。ましてや君主よりも悪いなんて。

〇晏嬰に見る無道な権力者の元での上手な生き方

 晏嬰は後に「晏子」として有名な賢人である。彼は、襄公十七年556BCに父の晏弱が亡くなった後大夫となっている。非常な倹約家としても有名だが、それが彼を助けたと思われる。

 崔杼が荘公を殺害した時に、晏嬰は荘公の遺体と対面するために危険な崔杼の邸を訪れるのだが、崔杼は部下が晏嬰を殺そうと言うのを否定した。晏嬰が国民に人気だったからである。彼は危険を顧みず崔杼の邸へ行ったのは、国君に対する礼儀を尊重したからだと思われる。そういうところも国民の心をとらえる行為だったのだろう。

 また、慶封家の内乱の時、慶封は朝廷に出す料理で問題が発生し、それに乗じて内乱を考えて事前に晏嬰に相談しているが、晏嬰の返事は

「頭が悪いので分かりません。ただ、あなたの話は内緒にしておきます」

といううまい逃げ口上であった。彼は慶封の身に何らかの危険が近づき、そのうち滅びるだろうと予測していたに違いないが、それ以上に、危険な権力者には近づかない信条を持っていたのではないかと思われる。

 最終的に慶封が追放され、景公から褒美として土地を賜る話があったが、彼は断っている。その理由として帯の幅の話をし、富とは上限があり、それ以上富があるのは不幸になるのだと話した。

 彼は「足るを知る」を実践したのだ。身分の高い家柄に生まれながら、自身の欲を制御できるというのは難しい。晏嬰が後世に賢人ともてはやされるのはここから来るのだろう。

〇同姓同士の結婚

 今回取り上げた部分に、同姓同士の結婚が2回出てくる。

 1.崔杼と棠姜

 2.慶舎の娘と盧蒲癸

 両名とも姜姓どうしである。

 生物学的にも遺伝子が近いと問題があるのは分かっているのだが、当時は迷信に近い状態ではあるが常識として禁忌だったのだろう。

 そのような禁忌を破ったら死が待っているという暗示をこの人物たちの結末で証明している。

 禁忌を破るというのをもっと掘り下げてみると、ようするに「欲が強く、普段してはいけないことすらも破る」人は不幸が待っている…ということだろうか。

 しかし、斉の大夫達のほとんどが公子出身なので姜姓ではない者はいないだろう。婚姻先を他国に求めないといけないのではと思ってしまう。

〇最後に

 崔杼は出番が少ないと思って取り上げてみたが、あまりにも幅広く深いので長文になってしまった。

 このころの春秋諸国はどこも内乱、君主殺しのオンパレードとなっている。

 そしていろんな家族が絡み、他国間の横の繋がりも多い。それを紐解くと、左丘明の思惑、考えが透けて見えてくる。

 崔杼、慶封も「こうなってはいけない」というお手本なのだろう。

 彼らには「怠惰」「欲深」「自己中」という共通点がある。確かにこういう人は現代でも波乱含みだろう。しかし、誰しもがそうなる可能性がある。自制するというのは難しい。左氏伝を読みながら「他人事」とは思えないエピソードは沢山ある。

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山東省 泰山の代廟

 代廟の正面入り口である。

 斉の国のあったところで旅行したというのは青島と泰山、済南くらい。

 済南でパスポートを無くし、私は苦境に立たされた。済南の政府機関の人はきちんと決まりに基づいて対応してくれた。しかし青島は担当者の気分で変わってしまう様子だった。困惑した私は日本に帰れるか分からない立場に…というひどい旅行をしたことがある。無事に帰ったが。帰国のため空港へ向かうハイヤーの運転手に愚痴を言っていたら「五体満足なんだろ?それでいいじゃないか」と慰めてくれた。

 代廟は泰山を祭る有名な場所。古来から王が泰山を祭る際に訪れたところだ。荘厳な雰囲気と堂々としたしつらえに圧倒された。

 

※文中に表記できない繁体字簡体字は日本で通常使われている漢字を当てています。

※参考文献

 〈日本〉全釈漢文大系 春秋左氏伝 上・中・下 集英社

     春秋左氏伝 上・中・下 小倉芳彦訳 岩波文庫

     史記世家  上・中・下 小川環樹他 岩波文庫

     易経 上・下      高田真治他 岩波文庫

     新釈漢文大系 史記(本紀)(世家)   明治書院

 〈中国〉中国史学要籍叢刊 左傳 上・下 上海古籍出版社

※最後に、ここに記すのはあくまでも私見である。

4.5 春秋左氏伝 周王朝の寵臣(虢公の場合)

※4から始まるものは春秋左氏伝について書きます。

 

周王朝の初代は武王で、春秋左氏伝はその武王から数えて第13代目の平王の時代から始まっている。今回は、その平王の後の第14代目の桓王、そして第15代目の恵王に気に入られていた虢公について記述したい。

虢公は国が虢(かく)、公は爵位を表している。春秋左氏伝に出てくる虢公は、名前がはっきりしている人が2名いるのだが、実際は3名以上いるのでは?と考えている。今回は虢公として特に個人の区別はせずに論じたい。

また、注釈によれば、虢国は東西南北に分かれているとあるが、左氏伝の記述には区別がなく、現在その区別をして検討するのが難しい。今回焦点を当てる虢国は西虢、北虢となるようだが、その詳細は省くことにする。一応、虢国は現在の中華人民共和国山西省平陸県あたりにあったようだ。

 

〇春秋左氏伝より(虢に関する記述)

722BC 隠公元年

 鄭と衛の戦いの際、鄭は周王と虢の軍と共に衛を攻めた。

720BC 隠公3年

 周の平王が亡くなる。その後を継いだ桓王は、平王時代に卿士(王卿の執政者)であった鄭伯(鄭は国名、伯は爵位、当時は荘公)を差し置いて虢公にも卿士の官位を与えた。

実は、平王の時も虢公に卿士の官位を与えようとし、鄭の荘公は周の平王を恨んだ。そこで、鄭と周の間で人質交換をしたという過去がある。

しかし、結局は平王の後の桓王の時に虢公を卿士にしたので、鄭の荘公は怒り、周の土地を襲撃し、稲を勝手に刈り取った。

718BC 隠公5年

 晋の曲沃(きょくよく)の荘伯が桓王から離反したので、虢公が王命により攻め、荘伯を討ち、哀侯を立てた。

 ※晋はもともと一国であったが、世継ぎの争いで、晋侯の分家が曲沃に別国を建ており、晋の国内に二君いる状態が続いていた。

712BC 隠公11年

 鄭伯は宋が国内に侵入したので、報復のため、虢公とともに宋を攻めて大破させた。

704BC 桓公8年

 曲沃の武公が晋の哀侯を滅ぼしたので、周王は虢仲(仲は名前)に命じて晋に哀侯の弟である緡(びん)を立てた。

702BC 桓公10年

 虢仲が桓王に自分の部下(周王朝の執政下における虢公の部下。虢国内部の部下ではない)である大夫の詹父(せんぼ)を中傷した。しかし詹父が反論し、それが正しかったので、逆に周の軍に攻められ、虢仲は虞国に逃げた。

678BC 荘公16年

 周の僖王(きおう)は虢公を派して曲沃伯を晋侯に立てた。これを武公という。

676BC 荘公18年

 周の恵王に虢公、晋侯が朝見した。その際、周王は宴会を催し、礼酒と引き出物があったが、その内容が虢公、晋侯ともに同じものであり、玉5対、馬3匹であった。虢公と晋侯は官位が異なるため、同列に扱ってはいけないのに、同じ礼物を与えている。

 夏に虢公、晋侯、鄭伯、原の荘公が恵王のために陳に后を迎えに行った。

674BC 荘公20年

 周王である恵王と異母弟の子頽(したい)の内紛があり、子頽が周王の座を奪ったものの、音楽や舞を楽しむばかりだったので、恵王を鄭に呼び寄せていた鄭伯は、虢公に子頽の態度を批判し、一緒に恵王を周王に戻す話を持ち掛けた。虢公はそれに同意する。

673BC 荘公21年

 鄭伯と虢公が王城を攻めて子頽を殺し、恵王を再度即位させた。鄭伯(厲公:れいこう)は恵王のために宝物と音楽を揃え、恵王は鄭伯に国土を与えた。原伯(原の荘公)は批判して「結局鄭伯も子頽と同じことをやっているじゃないか。お咎めにあうさ」と言った。結局、鄭伯(厲公)は5月亡くなった。

 恵王はお礼のために虢公に会うため、虢へ巡行したところ、虢公は王宮を急遽造営して迎えた。そのお礼に京王は虢公に酒泉の地を与えた。そして鄭伯(厲公の後を継いだ文公)が恵王をもてなしたところ、王后に与える鏡を与えられた。また、虢公が何か器がほしいとねだると、爵(高貴な器である杯)を与えた。

 これを見て、鄭の文公は恵王に対して憎むようになった。

 この後、冬に虢から恵王は周の王宮に帰っている。

668BC 荘公26年

 秋と冬の2回、虢は晋へ軍を侵入させた。

667BC 荘公27年

 晋侯(献公)が虢を攻めようと考えるが、家臣の士蔿(しい)が「まだ攻める時期ではありません。虢公は驕っているので、そのうち人望を失うでしょうから、それまで待ちましょう」と言った。

664BC 荘公30年

 恵王は虢公に、自分に背いた樊皮(はんぴ)を討つよう命じた。虢公は樊に攻め入って、逃げていた樊皮を捕らえて周王宮に連れ帰った。

662BC 荘公32年

 秋7月、神が莘(しん)の地(虢の土地)に降り立った。恵王は臣下の内史過に神を見に行くよう命令した。内史過は行く道中で、虢公がその神に自国の幸を願っているのを目撃する。そして「虢はきっと滅びる。残虐なのに神に祈るなんて」と呆れて恵王のもとに戻っていった。

 この神は莘に6か月とどまった。その間、虢公は祝応、宗区、史嚚(しぎん)に神を祭らせた。すると神は「虢に国土を与えよう」と告げた。

660BC 閔公2年

 春、虢公は犬戎(けんじゅう:異国の賊)を渭汭(いぜい)で破る。虢の大夫である舟之僑(しゅうしきょう)は「身に徳もないのに福をうけるなんて、きっと将来災いがあるはずだ」と言い、虢を去り、晋へ逃げた。

658BC 僖公2年

 晋は虢を攻め、下陽を滅ぼした。

 逆に虢は戎を桑田で破った。

 晋の家臣卜偃(ぼくえん)は「下陽を失ったのに、戦果を上げるなんて、国が亡びるだろう」と予言した。

655BC 僖公5年

 晋侯は虢の隣国虞を利用して虢を攻めた。虢の都上陽を包囲し、冬の12月、とうとう虢滅ぼした。虢公醜は周の王都に逃げた。晋は虢を滅ぼしたついでに虞も滅ぼした。

653BC 僖公7年

 恵王卒す。

 

周王朝と虢との関係

 虢は爵位でいうと「公爵」である。

 また、虢公の祖は、周王朝の祖である文王の弟(虢仲、虢叔)であり、周王朝の血筋。そして虢の領地は王都近くにあり、歴代周王と密接な関係にあったと推測できる。実際、虢公は卿士の身分となり、周王の命令を諸侯に伝えたり、周王と共に戦ったり、周王朝の内紛を制圧したりと王朝と共に動いている。桓王、恵王の信頼も厚かった証だろう。

 なお、虢公が記載される722BCは、周王朝が成立したと考えられている1020BCから約300年経過している。この722BCは平王の時代で、その父幽王の妻、褒姒(ほうじ)という笑わない美女等により王朝の権威が失墜し、内戦が勃発して王朝の領土が減り、東周時代となっていた。都は現在の洛陽。ほとんど周王朝の威厳は無く、その権威は形骸化していた。

 そのため、720BCの鄭伯の桓王に対する恨み、676BCの虢公と晋侯への扱い、673BCの鄭伯と虢公の扱いに対する鄭伯の恨みは、周王自身に権威がないからこそ発生したものだろう。

 実際、爵位の順は、公、侯、伯、子、男であり、

 大国の扱いは公と侯の国、次国の扱いは伯、小国の扱いは子と男の国となっている。

 公爵は虢、侯爵は晋、伯爵は鄭であり、本来、鄭は虢が優遇されていても文句は言えない立場なのに堂々と不満な態度を表している。また虢と晋を同列に扱い、格下である晋を優遇している。これらは、虢に比べて鄭や晋の領土と戦力が上だからだろうと推測される。

また違う視点から見れば、虢の国土はひどく小さく、例え爵位は高くとも、実力は無いとしか言いようがない。つまり、晋や鄭から格下に見られても仕方がないと思われる。

最終的に、実力をつけてきた晋は虢を攻め滅ぼそうともくろむことになる。

〇晋の事情

 晋は、周王朝を建国した武王の次男である叔虞(しゅくぐ)を祖とする。叔虞は唐という国を与えられ、その後、唐は晋という名前に変わった。

 745BC、当時の晋侯は自身の伯父の桓叔を曲沃の地に封じた。桓叔はそこで善政をしいたので、国民に慕われ、晋の一地方でありながら、本家を上回る支持と財を成すことになる。

 結果、晋は都の翼と地方の曲沃に分裂し、国内が混乱し始める。そこに周王朝の指示で仲裁に入るのが虢公となる。

 最終的に678BC、曲沃の武公が晋を統一して収まる時、虢公が協力している。

 晋はその年から安定した国家へと変貌する。武公亡き後、献公が即位し、力を持ち始める。献公は有名な重耳(ちょうじ、将来の覇者である晋の文公)の父である。冷酷な人間で身内を殺すことにすらためらいはない人物だ。

 当時、斉の桓公が覇者となり、周王朝を支えながら、各国を従わせていた頃である。晋の献公も晋の国土の広さから、斉の桓公のような力を付けたいと望んだであろう。献公は晋の近くの異民族(驪戎:りじゅう)を攻めたり、君主の座を脅かす他の公子を殺したりしていった。その際、一部の公子は虢国に逃亡している。

 虢国は晋国の南西にある小さい国家である。直接国境を接している虞国を挟んで南側に位置している。献公はこの虢国が目障りだった。

 しかし、虢公は周の恵王の覚えめでたく、戦も強い。献公も簡単には滅ぼせないと考えただろう。

〇鄭の事情

 鄭は左氏伝の中で一番新しい国である。鄭の祖は、周の第10代厲王の末子で名は友。806BCに鄭に封じられ、桓公となった。その後、周の幽王の代に政治が乱れ(前述)、鄭の桓公は将来を心配し、周の太史である伯陽にどうすればいいか尋ねる。なお、この太史というのは、国家行事などを執り行う官である。この伯陽は、乱れた周の王政の中でも常識のある知識人のようだ。また、この時、桓公自身も司徒の位(今でいうところの、文部大臣という感じ)に就いている。

 史記の世家の記述によれば、鄭の桓公の心配に、伯陽はこう答える。

「洛水の東、黄河と済水の南方の地へお逃げなさい。その地の持ち主の虢や鄶(かい)には頼んでみたらその地をもらえますよ。虢も鄶も国君が横暴なので国民が懐いていないし、それにあなたのご身分が司徒ですから、喜んで譲るでしょう」

 桓公は、もっと南に行きたいと望んだが、それは伯陽が反対した。その地は楚であり、そのうち楚が強くなるだろうから、鄭が危険になるということだった。

 桓公は周がこのまま衰えたら、どこの国が強くなるか伯陽に尋ねる。すると、伯陽は

「斉、秦、晋、楚」の四か国を答えた。

 理由はその祖が皆有徳者であり、周とは関連はあっても、直接の系統ではないから。

晋のみ周との血縁関係があるが、土地の利があることを理由としている。

 桓公は伯陽のアドバイスに従い、虢と鄶に土地を譲ってもらい、現在の河南省新鄭市に新しい都を作った。

 鄭は周王とは近い間柄で、高位だったことが見て取れる。しかし、後の荘公の時代に、虢公を桓王が優遇したため、周王朝からだんだん遠ざかり、歯向かうことすらし始めるようになった。

〇虞の攻防

 虞は周の文王の伯父にあたる虞仲を祖とする小さい国である。虢公とは同姓となるが、虢とは違って周王朝における活躍にめぼしいものはない。

 この虞には宮之奇(きゅうしき)という賢人がいた。

 晋の献公は、虢を滅ぼすためには虞を利用することを進言した荀息(じゅんそく)の策を取りいれることにした。荀息は名馬と宝石を虞公に与えれば簡単に利用できるという。賢人の宮之奇がいても、彼は臆病である上に虞公に近い存在なので苦言は聞き入れられないだろうと予測。実際その予測は当たってしまう。

 虞はこの記述以外でも、虢と並んで欲が深く国民を困らせる国家として紹介されている。

 655BC、晋が虞に、虢を攻めるために協力しろと再び言ってきた際、宮之奇は虞公に強く諫言した。しかし公は聞き入れず、宮之奇は虞の滅亡を予測し、国を去っている。

結果、晋は虢を滅ぼすと虞も一緒に滅ぼし、領土を広げたのである。

 宮之奇の諫言の中のセリフで面白いものがあるので取り上げてみる。

 「虢虞之表也。虢亡虞必従之。…(略)…諺所謂輔車相依。唇亡歯寒者、其虞虢之謂也」

 →虢と虞は(現代風に言えば)表裏一体の関係です。虢が滅亡すれば虞も同様のことになります。…諺で言うところの、「車輪と輔がなければ車ではない、唇が無くなれば、歯が寒くなる」というのは虞と虢のことなのです。

 なお、輔というのは、荷台の側面に立てている板のことである。

 「臣聞之、鬼神非人実親。惟徳是依。故周書曰、皇天無親。惟徳是輔。又曰、黍稷非馨、明徳惟馨。又曰、民不易物。惟徳維物。如是則日徳民不和、神不享矣。神所憑依、将在徳 矣。」

 →(虞公は神を大切に祀っているのだから、国は滅びないと言うが)臣の私が聞くところでは、神は人そのものに親しむのではなく、ただ仁徳に親しむと。だから周書(現代は書経尚書という名前)に「天の神に親しみの感情は無く、ただ仁徳にのみ助けを与える」と書かれているのです。また、他にも「お供え物に相応しいのは、黍などの穀物ではなく、ただ人の仁徳である」とも言われていますし、「人民に対して制度を以てするのではなく、徳を以てする」とも言われています。つまり、徳が無ければ民は懐かない上に神も(沢山祈ったからといって)受けてくれないのです。神が憑依するところは徳のある人のみなのです。(だから、神を大切に祀っていても、徳がなければ、滅びるのです)

 ここまで必死に宮之奇が説得したが、虞公には響かなかったのだろう。賢人がいても君主が愚かだといつの時代もその国は滅んでしまうものだ。

〇虢の事情

 虢公は周王に重用されていたのみならず、戦も上手だったようである。

 しかし、晋の家臣の言葉によれば、虢は国民に慕われておらず、周王に重用されることや、国土を広げることばかり気にし、戦で疲弊した国民を顧みることはなかったようだ。

 そのような態度は随所に見える。

 658BCで虢は晋に下陽という街を奪われたというのに、同年戎を攻めている。晋の卜偃(ぼくえん)が虢公のことを「是天奪之鑒、而益其疾也。必易晋而不撫其民矣」(現代語訳:天は虢公が自分を見つめ返す鏡を奪い、その悪い病を悪化させた。虢公は晋を軽んじ、自国の民を愛撫しないだろうよ)と言っている。

 655BCで、虢にはびこる怪しげな童謡を卜偃が晋侯に告げている。その童謡とは

「丙之晨、龍尾伏辰。均服振振、取虢之旗。鶉之賁賁、天策焞焞、火中成軍。虢公其奔」

 →丙の日の早朝、龍尾の星が夜空に出なくなる頃、軍服を着た人が覇気強く、ついに虢の旗を奪う。鶉火星の光が輝き始め、西空の天策星が弱くなり、鶉火星が強い時に軍が勝つ。そして虢公は逃げ出すだろう

 これは虢国滅亡の具体的な日時を示した童謡だ。実際ここまではっきりと歌われていたのか疑問だが、民心というのは戦に敏感なので、それなりに危険は察知していただろうし、虢公に対する不平不満もあり、民衆が皮肉を込めて歌を作ったのではないかと考えられる。

 実際、長い中国史を見ると、滅亡近くになると怪しげな歌がはびこるので、もしかしたら、歴史書記述する際の、ある種のおきまりパターンなのかもしれない。

 ただ、このような童謡が国民に流れている事実があるのならば、虢公はひどい君主だったのだろう。

〇神??

 662BC 秋七月 有神降于莘

 →莘という虢の地に神が降りた。

 神という存在に懐疑的な観点から見れば、この左氏伝の内容は不可解な話である。

 中国の注釈では、この神を「有神声以接人」とあり、神がかりにあった(神が憑りついて人間の口から予言するような)人がいたということになっている。

 神は周の全部の民のために現れたのだろうが(だから周王は内史過を派遣させた)、虢公は自分の領地に降り立ったので、必死に自分の欲(国土が欲しい)と祈っていた。ここが尊敬に値しない行動と思われるが、結局神は「虢に土地を与える」と告げているのだ。結果土地どころか、虢は滅亡しているのだが。神とはなんだったのだろう。

 虢公の態度を見た周王の臣下史嚚(しぎん)は、虢公について

「吾聞之、国将興聴於民。将亡聴於神。神聡明正直而壹者也。依人而行。虢多涼徳。其何土之能得」

 →私はこういうことを聞いている「国がまさに発展する時は民に聴く。国がまさに亡ぶ時は神に聴く」と。神は賢く正直で唯一の者。願いはその人の徳に応じて叶える。虢は不徳が多い。それなのにどうして土地なんてもらえようか

というわけで、虢公は神から「土地与えるよ」と言われたが、もらえないだろうと予測した。

科学的な観点から見れば、その神がうさんくさいと思うのだが、まあ、史嚚の言葉が正しいことは歴史が証明している。

 

 

〇まとめ

 虢が滅ぶのは周建国から約365年後だ。虢は周に近い血筋の国である。他に近い血筋では鄭、魯、管、蔡、衛、晋。晋以外は君主とその跡継ぎによる内乱、近隣諸国との戦争で疲弊し、力を無くしていく。周王が頼る国は覇王となった斉、その後は晋のみだ。晋も、文公が覇者となった後は衰退する一方であった。周王朝が衰退するきっかけは左氏伝の始まりより前の話だ。もう形骸化し生きながらえていたが、虢が滅び、その他の国も覇権争いに興じ、周王朝を貴ぶ態度は失われてしまった。

 虢の繁栄と滅亡は周の最後の力のきらめきの一つだったような気がする。

 晋の文公の後、楚が力を増し、呉が突然表舞台に飛び出し、中国の南方の地域が力をつけていく。後、戦国の世となれば、晋が魏、趙、韓に分裂し、完全に周王朝とは縁のない国となり、秦が強大となる。

 鄭の桓公に伯陽が言った「周が衰退する時、強くなるのは斉、晋、楚、秦です」と言ったのは正しかった。この文章が書かれた時がまだ春秋の時代であれば、先見の目があったと思う。理由に周王朝と縁故のない国であり、徳で国を興した所としたのも面白い。国というのは栄枯盛衰があるのは十分分かっているが、それが明白な結果となって戦国の時代に実際そのとおりになっているのは興味深い。もちろん、斉ほか三国も結局は滅ぶのだが。永遠には続かないのだ。悲しいことに。

 左氏伝を読むと国君の徳の大切さを説くが…果たして徳があれば国は永遠に続くのだろうか?私は疑問に思う。左丘明は徳に万能性を期待していたのだろうか?徳に関わらずいつか必ず滅びると考えていたのでは?

 

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河南省鄭州市 黄河遊覧区

 

※文中に表記できない繁体字簡体字は日本で通常使われている漢字を当てています。

※参考文献

 〈日本〉全釈漢文大系 春秋左氏伝 上・中・下 集英社

     同      礼記    上・中・下 集英社

     春秋左氏伝 上・中・下 小倉芳彦訳 岩波文庫

     史記世家  上・中・下 小川環樹他 岩波文庫

     新釈漢文大系 史記(本紀)(世家)   明治書院

 〈中国〉中国史学要籍叢刊 左傳 上・下 上海古籍出版社

※最後に、ここに記すのはあくまでも私見である。

4.4 春秋左氏伝 魯の家臣たち(季孫氏の祖、公子友の場合)

※4から始まるものは春秋左氏伝について書きます。

 

春秋という歴史書は以前書いたとおり、魯の歴史書である。

そのため、内容には魯の家臣が多数登場する。その中でも季孫氏の者が一番活躍している。今回はその季孫氏の祖、公子友のことを書きたい。

公子友は魯の桓公の次男、母は斉の公主である文姜、兄は荘公(桓公の後の魯の国君)である。またの名を季友、成季とも言う。

母の文姜は斉の襄公(文姜の兄)と密通するような女性で、その密通知った桓公が文姜をとがめたことで、浮気相手の襄公と共謀して桓公を殺している。

桓公の死後、荘公が即位する。

 

魯では国君の子が生まれる前に必ず占いをしているようだ。

公子友に関して左氏伝では面白い占い結果を記している。

その内容は

①男子

②公(国君のこと)の右(補佐的な役割をする重要な人物のこと)になる

③周と魯の間で、魯の公室を補佐する

④この子の子孫が滅びると魯も繁栄しない

となっていた。実際、公子が産まれると手に「友」の手相が出ていたので、名前を「友」と名付けたそうだ(閔公二年の記述より)

 

〇春秋左氏伝より

BC662、荘公32年

 寿命を感じた荘公が自分の跡継ぎのことを心配し、叔牙(荘公の異母弟、慶父の弟)と公子友(荘公の実弟)に尋ねる。

 叔牙「兄の慶父がいいと思います」

 公子友「荘公の嫡男の子般がいいと思います」

 結局、公子友は子般を擁立するため、叔牙を自殺させ、子般を国君にさせたが、子般は母親の実家に籠って出てこなかったので、慶父が子般を殺し、庶子の公子開を国君にして閔公(びんこう)とする。

 公子友は陳へ逃亡。

BC661、閔公元年

 閔公が斉へ行き、季友(公子友のこと)を帰国させた。

 

BC660、閔公2年

  国君の座を狙っていた慶父が閔公に恨みをもつ者をそそのかして閔公を殺した。

 季友は公子申(閔公の異母弟)を伴って邾(ちゅ:魯の近隣の小国)へ乱をさけ、慶父は莒に逃げた。

 季友は慶父が去ったことを知ると魯へ戻り、公子申を国君に立て、莒(きょ:魯の近隣の小国)に慶父を殺すように指示した。

 これで魯は内乱が収まり、公子申は僖公(きこう)となった。

BC659、僖公元年

 季友が莒を破り、その功績として汶陽の田土と費を賜る。

BC644、僖公16年

 三月壬申 公子季友卒す。

BC621、文公6年

 季友の孫である季孫行父が春秋に記される。

 

〇魯の国君擁立の裏事情

国君擁立は過去、未来、どの国でも嫡子が自動的になるというよりも、後ろ盾が強い方、母親が寵愛された方となるのは変わらない。魯ももちろん例外ではない。

そして、後ろ盾となる者は、魯では母親とその愛人というパターンが多い。

春秋で述べられた期間、最初にそのパターン出てくるのは前述の荘公32年である。

公子友が後ろ盾についたのは子般。

慶父が後ろ盾についたのは閔公。

子般は慶父に殺され、閔公が国君になるのだが、裏事情があり、荘公の正妻だった哀姜は子がおらず、彼女は慶父と通じ、最終的には妻となっている。彼女は夫の慶父を国君にしたかったのだ。ちなみに閔公の母は叔姜であり、哀姜の妹である。

そういうわけで、慶父は閔公から国君の座を取るべく、閔公をすぐ殺している。閔公は在位たった2年だ。

 

閔公亡き後、慶父と玉座を争ったのは、公子友が後ろ盾となった僖公だ。僖公の母は成風。彼女は僖公を産み、夫の荘公亡き後、公子友の妻となっている。つまり、僖公は公子友の妻の連れ子ということだ。当然僖公は国君になった後、母とその夫へのお礼として国土を渡している。これが季孫氏の発展の始まりとなるのだ。

 

それから僖公の後の文公の跡継ぎについても似た争いがあった。

文公には正妻の哀姜が二人子供がおり、側室の敬嬴には公子俀(たい)がいた。

敬嬴は襄仲(公子遂;公子友の甥、荘公の子)の愛人であり、襄仲は敬嬴の子に国君を継がそうと、哀姜の二子を殺し、公子俀を国君につけた。それが宣公である。

その仕打ちに悲しんだ哀姜は斉に帰ることになり、途中で国民に、襄仲の無道を訴えた。

 

下って、昭公の時代、季孫氏の季平子が闘鶏した時、争いになり、季平子に手を焼いた大夫たちが昭公に相談し、昭公が季平子を攻めた。しかし、季平子の財力と権力がすさまじく、結局国君の昭公が国外逃亡する羽目となる。

 

この国君国外逃亡に関して興味深い場面がある。それは晋の趙簡子と蔡墨の会話のシーン。

趙簡子は魯の国君を季平子が追い出し、それでも魯の国民が季平子を支持していることに疑問を持ち、それを蔡墨に尋ねると、蔡墨は史官なので、過去の歴史や自然節理を元にその理由を説明する。その内容を箇条書きにすると

●ものには副があり、天が魯公の副(補佐)に季孫氏を選んでいるから民が懐くのも当然

●魯の国君はずっと高位に甘んじているだけだが、季孫氏は研鑽し学んでいたから国民は国君の存在を忘れてしまった

●国の主も不変ではない。もちろん家臣の地位が上位と変わることもある

●季孫氏の祖の季友(公子友)は占った結果にも公室の補佐となるとでていた

●文公の後、嫡子を殺し、庶子が立った段階で魯は国政を失った

そして最後に、魯の国君は国君の象徴である車馬や称号を大切に扱い、簡単に他人に渡したりしてはならなかったのに、渡してしまったからこうなったのだと言っている。

 

〇季孫氏の存在

 公子友の占い結果は最終的には当たっていたと言えるだろう。春秋左氏伝の終わりはまだ魯があり、季孫氏は季康子となっている。ちょうど孔子の弟子が活躍し、孔子は引退しながら弟子のその後を心配している。

 春秋時代が終わると、魯はほとんど記述がない。戦国時代において、記述が多いのは他の国ばかりだ。存在がひどく希薄になっていたのだろう。また季孫氏のその後は私が調べた限り不明である。

 魯はこの季孫氏と叔孫氏、仲孫氏(苗字は孟)が権力を握っている。ひと際強いのが季孫氏だ。

 ちなみに、この三氏はすべて桓公の公子から派生している。斉の公女を迎え、その妻に浮気され、浮気相手の斉の襄公に殺された魯の国君だ。ここから魯の国政は乱れだしたのだろうと思われる。結局妻の浮気、後見人、そしてその子という因果な流れはずっと続いたのだ。

 

 左氏伝において、魯という国、そして季孫氏の位置づけを記述することで何が読み取れるのだろうか。

 私は、公子友の占いの表現から、どうしても「天意」なるものの存在を重視していると考える。

 その天意通り、公子友の家系は栄え、それに引きずられるように魯の王権は小さくなっていった。天命だからしかたない。まるでそう言っているかのようである。

 ただ、蔡墨のセリフに出てきた「車馬や称号を大切」にしさえすれば魯の王権は維持されたのだろうか。多分維持されたのだろう。

結局、国君の威厳を保つものをひとつずつ失ってしまったのはその時の魯公の対応や軽さだった。妻が陰で権力ある男に近づき、庶子であっても、国君となれるように後見人を頼むという悪循環は続いた。それは国君の力の無さ、能力の無さが続き、ただただ血筋しか残らなかった悲劇なのかもしれない。

 せっかく、周王朝建国の要であった周公の国だというのに、子孫が全くパッとしなかったというのは、周公の威光や周王朝の庇護を過信しすぎたのだろうか。

 覇を唱えられるだけの能力のある国君が現れなかったのは、魯という国の底力の無さによるものなのだろう。

 もっと手厳しく魯国の政治を批判してもいいのに、自国の歴史書という位置づけから、天意というオブラートに包んで「こんな国君が続くのだからしかたない」という自嘲気味な感想でうまく濁しているのだけなのかもしれない。

 

周易とのつながり

 公子友が産まれる前の占いの際、筮を立てると、「大有」から「乾」に変わる卦が出た。

 (このブログで易経八卦の表示ができないので、卦の表示は割愛する)この卦について、この公子友に合わせて大げさに表現するなら、最初に出た「大有」は補佐する者が最高で、国が豊かになる卦。次に出た「乾」はいわゆる「陽」の最高の形である王位が極まる卦である。占い結果は補佐するものが最高で、それは王座に近い存在になるだろうという内容だ。まさに将来を表している。筮をした占い師は、公子友の父である桓公が不快にならないように、公子友は永遠に補佐でいるという表現をしてごまかしているようだ。

 しかし、変じた先が「乾」という王位の竜の最高形なら、どうみても王位を奪う存在になるという意味にしか捉えられないのだが。最終的に季平子の時代は王を国外逃亡に追い込み、国の政治を自らやっている。筮は当たったのだ。

 

 春秋左氏伝では、よく易が出てくる。

 もともと易は周易と言い、文王が作り、周公がそれを補足して深めたと言われているもの。魯の祖である周公が作ったものであるから、魯では何かあるたびに筮を立てたのかもしれない。

易について、左丘明は肯定的にとらえていたのだと思う。というのは、この公子友の話だけではなく、他のエピソードでも出てくる上、結構筮が当たる。話を作るためにわざとでは?というところはあるだろうが、その表現の意図を考えれば、左丘明は歴史の流れ、人間関係はある意味「自然秩序」の範囲内で流れ、変化し、そして結論に達するという考え方を持っていたのではないかと私は思う。

易は、現代の目線で見れば、ひどく不可解な、自然科学を知らない古代の行為であるが、実際、周易(今は易経)を読めば、ひどく奥深く、面白い。当時としたら最先端の科学だったのだろう。陰陽の関わりは今でも通じるものは沢山あるはずである。

 

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山東省 曲阜 周公廟の周公像

周公廟に行った時、入り口に50代くらいの男性が立っていて、私が門を入ると、「中を案内するからお金をくれ」と言ってきた。その人は周公の子孫だと言う。私は詐欺を疑ったが、周公の正当な子孫だと力説し、周公の祭りに出席している映像なども見せてきたので、信用することにして、中を案内してもらった。詳しい説明と家系の自慢をしっかり聞いた後、最後に料金請求の時、最初と言っていた金額が違い、高額になっていた。私は周公の子孫なのに恥ずかしい、最初の金額はこうだったじゃないかと言うと、しぶしぶ最初の金額でいいと言ってくれた。なんとも気持ちの晴れない思い出になった。

 

※文中に表記できない繁体字簡体字は日本で通常使われている漢字を当てています。

※参考文献

 〈日本〉全釈漢文大系 春秋左氏伝 上・中・下 竹内照夫 集英社

     春秋左氏伝 上・中・下 小倉芳彦訳 岩波文庫

     易経 上・下     髙田真治ほか訳 岩波文庫

     超訳 易経 陽・陰  竹村亞希子 新泉社

※最後に、ここに記すのはあくまでも私見である。

4.3 春秋左氏伝 貴公子(呉の季札の場合)

※4から始まるものは春秋左氏伝について書きます。

 

季札(きさつ)は呉の公子である。季は末子の意味、札は名。呉という蛮地に生まれながら、その知識の高さと礼節を重んじる人柄で諸侯から尊敬を集めた人である。

呉は現在の蘇州付近にあった国家で、その祖は太伯と言い、周王朝の祖である文王の伯父である。文王の父親である季歴が優秀であったため、本来嫡男であり跡継ぎである太伯は弟の季歴に跡継ぎの身分を譲るため、自ら国を去り、南の蛮地である呉へ去った。

それから数百年後、呉は長江南方の国として強大な力を持ち、王国へと変化していった。

その時の国王が寿夢(じゅぼう)である。

寿夢の正妻に4人の子があり、長男を諸樊(しょはん)、次男を余祭(よさい)、三男を余昧(よまい)、そして四男が季札(きさつ)である。

 

〇春秋左氏伝より

BC561、襄公12年

秋、呉の寿夢が亡くなる

BC559、襄公14年

  跡を継いだ諸樊は、寿夢の喪が明けると、すぐに季札を国王に立てようとしたが、季札は辞退した。それでも無理やり国王にしようとしたが、季札は家財を捨て、田舎に逃げ、そこで農業を始めたので、諸樊は諦め、そのまま王として執務を行った。

BC548、襄公25年

  呉王の諸樊は楚に侵攻し、戦で矢に打たれて亡くなった。

BC544、襄公29年

  諸樊の亡き後、跡を継いだ余祭のために季札は諸国を巡り、その即位の報告を使者として行った。

  その際、季札はさまざまな国を訪れ、重要な人物に助言や忠告を行っている。

  魯では、叔孫穆子に将来の災難を予言、また魯の宮廷で古の音楽などを楽しみ、感想を述べている。

  斉では晏嬰(晏子のこと)と会い、彼の将来を心配し助言をしている。(おかげで晏嬰は助かっている)

  鄭では子産に会い、その将来のアドバイスをしている。(子産はのちに鄭で執政となりその慎重で堅実な政治と外交で鄭を盛り立てる)

  衛では有能な家臣を褒め、衛の安定を予想する。

  晋へ行く途中で、謹慎する身の孫文子が音楽を楽しんでいるのを見て批判する。(孫文子は季札の批判を耳にし、反省して二度と音楽を聴かなかった)

  そして晋に到着すると、趙文子、韓宣子、魏献子と気が合い、晋の将来の予言をする(のちに晋はこの三人の子孫に分割され、趙、韓、魏の三国となる)。重臣である叔向 に難を逃れるよう助言している。

BC542、襄公31年

  趙文子が呉王の夷末(いばつ…余昧のこと)の使節である屈狐庸(くつこよう)に「季札は将来呉の国君になるだろうか」と尋ねると、屈狐庸は否定し、夷末の子孫が国君になるだろうという。(実際そのとおりとなる)

BC515、昭公27年

季札は呉王僚(りょう…寿夢の庶子の長、季札とは異母兄)の命令で諸国へ使者として向かう。

その途中で公子光(余昧の長子)が王僚を殺し、呉王闔閭となる。

季札が後に呉へ帰ってくると、(本来季札に王座が渡されるはずなのに)闔閭が呉王となっていたが、季札は闔閭に「国の社稷が守られ、国の形を保つことができるのなら、私は誰が王になってもかまわない」と述べた。

BC496、定公14年

  呉と越が戦い、その中で闔閭が亡くなる。子の夫差が呉王となる。

  夫差が王となった後、戦が続く。

BC484、哀公10年

  夫差の命令で季札は陳へ援軍に向かう。陳は楚に攻められて苦境に立たされていた。季札は楚の将軍子期と会い、こう提案する。

「お互いの国の王は、徳に努めず、諸侯を奪い合っているだけだ。民には何の罪もない。お互い戦をせずに引き上げませんか。私が先に引き上げれば、あなたも面目が立ちましょう」

  子期はこの提案を受け入れ、季札が陳を去ると、軍を退いた。

BC473、哀公22年

  夫差越に敗れ、呉滅亡する。

 

〇公羊伝、呉越春秋より考察

他書における呉の王位の経緯や季札の人柄の描写を見てみたい。

寿夢の時、呉は中原から離れていることもあって、蛮地で遅れた地域であった。そのために、寿夢は礼儀作法、知識等を学び、国の勃興を促した。その中で末子だった季札が一番有望だったのだろう。寿夢は呉の将来を考え、季札が王になればもっと発展すると考えた。

正妻の4人の子は皆仲が良く、父の願いを聞いた、季札以外の兄弟、諸樊、余祭、余昧は父亡き後、季札に王位を譲ろうとしたのだが、季札はこれを固辞。季札は数年前に起こった曹の国での跡継ぎ問題を理由に、兄弟の順を越えて末子である自分が王位にはつけないと言ったのである。そこで、諸樊は仕方なく自分が継ぐことで、諸樊(長男)→余祭(次男)→余昧(三男)→季札(四男)と王位を継承できればいいと考えた。

 結局、余昧亡きあと、庶子の長である僚が継ぎ(呉越春秋では余昧の子が僚となっている)、季札は王位を継承せず、僚が王になったことを不満に思っていた公子光(呉越春秋では諸樊の子)は、季札が諸国歴訪中で不在の間に王僚を暗殺し、呉王闔閭となった。闔閭は歴訪から帰ってきた季札に王位についてどう思うか尋ね、季札は、自分は王位を継承しないと言い、闔閭の王位奪取を祝福している。

 

 公羊伝には、闔閭に対する季札の言葉が、左氏伝、呉越春秋とは異なっていて面白い。

公羊伝 襄公二十有九年

「爾弑吾君、吾受爾国、是吾與爾為算也。爾殺吾兄、吾又殺爾、是父子兄弟相殺終身無巳也。」

 (あなたは私の国君を殺したのに、その国君の座を私が受け取れば、私とあなたが計画して国君を殺したことになります。また、あなたは私の異母兄を殺したのですから、私が復讐してあなたを殺せば、家族の骨肉の争いがずっと続くということになってしまいます)

このように具体的な理由で季札は断っている。呉越春秋と左氏伝では季札は国が保てることが最上であり、私は誰がなっても構わないという平和主義的な思想であった。

左氏伝とは違う季札の言動だが、加えて言えば、公羊伝では、季札を賢人だと大変賞賛している。その理由はいかにも儒教思想らしい。公羊伝に

「何賢乎季子? 譲国也。」

と記載されている。兄弟の序列を大切にし、国君にならず、下野したからである。また、さらに、前述の季札の言葉の後、季札は闔閭の治める呉の宮中には行かず、自分の領地である延州へと戻った後、こう記述されている。

「故君子以其不受為義、以其不殺為仁。賢季子則呉何以有大夫?以季子為臣、則宜有君者也。」

(〈季札の行為を見て〉君子は季札が王位を受けなかったのは義であり、闔閭を殺さなかったのは仁だと認めた。賢人季札はどうして闔閭や呉の体制を認めたのだろうか。季札が家臣でいること、それがすなわち呉の君主が認めたということになる)

なお、呉越春秋、公羊伝では、季札の話は、闔閭が王僚を暗殺して君主になった時で終了している。それ以降に記述はない。

 

〇左氏伝での季札の描写

季札は父の望みを断り、最後まで君主にならず、延州で静かな生活をしていたようだ。

彼の左氏伝特有な行動は、BC544、襄公29年(前述)で顕著に記されている。諸国歴訪して各国の重臣にアドバイスをしたり、音楽を聴いて曲の由来を当てたりと才知ある人格をあますところなく発揮している。

この季札の存在は、各国の現在の状況、将来にわたる災難を予知し、それにどう対処すべきかアドバイスする聖人的な位置づけになっている。実際そのような発言があったのか不明だが、彼が当時、中原の国々の(現代風な表現だと)意識の高い人々からすれば憧れの有名人であったことは窺い知れる。

呉は本来最南方の周王朝ゆかりの国であり、完全な蛮地ではないものの、存在は薄く、相手にされていなかったようだ。しかし寿夢が王のころから、楚や越を相手に動き始め、だんだんと勢力を拡大する。季札が褒められているが、本来、寿夢が立派な王だったのではないかと私は思う。そういう父親だから、息子たちに高い教育を施し、頭角を現したのが季札だったのだろう。

 

父寿夢は、自分の祖先の太伯が行ったように、有能な子孫に王位を継がせるため、兄弟は協力すべきであり、そうすることで国の繁栄を望めると思ったはずだ。

しかし季札はそれを拒んでいる。彼は父の考えは分かっていただろうと思うのだが、兄弟の序列、嫡男が継ぐということにこだわった。公羊伝ではそれは「賢人」だと褒めているが、左氏伝では様相が違う。褒めていないようだ。季札の頭脳の高さ、人物の良さは認めているものの、王位継承を断ったことだけを以て「すごい」とは言っていない。

BC542、襄公31年(前述)の経緯で、晋の趙文子が「呉の諸樊と余祭が早く亡くなったのは天が季札に国王になるよう望んでいるのでは」と尋ねた際の、呉の臣屈狐庸の予言めいた言葉

「不立。是二王之命也。非啓季子也。若天所啓其在今嗣君乎。甚徳而度。徳不失民、度不失事。民親而事有序。其天所啓也。有呉国者、必此君之子孫実終之。季子守節者也。難有国不立。」

(季子【季札の敬称】は国王にはならないです。諸樊と余祭が亡くなったのは天命で、季子のためではないのです。もし天の恵みがあるといえば、今の余昧です。とても徳があり節度を守っています。民も信頼を寄せ、政事も失敗がありません。民が慕い物事の順序を守る人、それが天の恵みを受ける人でしょう。呉の君主にはこの余昧の子孫が最後まで君臨するのではないでしょうか。季子は節度を守る方、決して国王にはなりませんよ)

大国晋の重臣趙文子が呉の将来を不安視しているため(季札が王となって呉が実力をつけると困るという意味で)、わざとこのような発言をし、また同時に現在の君主余昧を持ち上げる…という発言をしたとも捉えられないが…左氏伝の場合はこの言葉が予言のような意味となるのでストレートに受け取っていい内容だと思われる。

要するに季札は王位は絶対継承しない、それは天命であるから…という意味なのであろう。

左氏伝は天の意を王位や運命の理由付けに使っている。それは実力で王位を奪うなど人為的な王位継承ではなく天意に基づく王位継承が最上だと考えている所以ではないだろうか。

 

〇季札の王位拒絶に関して考えること

呉は闔閭の後、伍子胥孫武等、当時としたら頭脳トップレベルの軍師が呉で活躍し、大国楚を追い立て、越を蹴散らし、その後夫差の時代となっても、他国へ攻め入り、当時の最強の国へと変化していく。

その後、夫差の傲慢な態度から、越がそれに乗じて復讐を計り、孫武は斉へ行き、伍子胥は自殺を命じられ、最終的に夫差は越との戦争に敗れて呉は滅亡してしまう。

伍子胥が自殺を命じられる前年、季札は、BC484、哀公10年(前述)に陳へ援軍に行き、楚と交渉して戦をしないまま呉へ帰っている。

季札はこの時80歳前後(参考文献には90歳前後では?とある)だったのではないだろうか。彼は楚の子期に対して、

「二君不務徳、而力争諸侯。民何罪焉。我請退以為子名。務徳而安民。」

(呉も楚も国君が徳に務めず、軍事力で諸侯と争うばかりだ。(軍役に苦しむ)民には何の罪がありましょう。私が先に退いてあなたの名誉を守ります(互いに軍を退いて戦争を止めましょう)。徳に務めて民を安心させて下さい)

季札は夫差の横暴には辟易し、呉の衰退を予測していたのだろう。彼は明晰な頭脳がありながら国を救ったりしなかったのか。逆に伍子胥は夫差を厳しく諫めて最終的に自殺を命じられるまでになっている。

左氏伝では、王位奪還の血生臭い争いも、国の衰退にも、季札は平然とし、どこか超然として予言者のような風貌を見せる。この春秋時代全般的に、王位継承に基づく様々な血で血を洗うようなひどい事件が続くが、季札はそういうものを嫌ったのだろうか。ただ、そんな世界で名声を思うままにし、決して争いに加わらず、身分が高いのに身の危険を一度も感じられない生き方ができた唯一の人物であろう。

 

最後に、呉越春秋から、余昧が亡くなり、とうとう順番で季札が王位を受けねばならなくなった際、季札が言った言葉がある。

「吾不受位、明矣。昔前君有命、巳附子臧之義、潔身清行、仰高履尚、惟仁是処、富貴之於我、如秋風之過耳。」

(私が国王の位を受けないのははっきりしている。以前、父寿夢が私へ王位を渡そうとした際にも話したように、曹の子臧のように私も義理を守りたい。そして身を潔くし、清廉な日々を送り、高い人格を望むように生き、ただ仁を全うするようなところに身を置くことが私にとっては一番なのです。富貴などは、私にとって耳にそよぐ秋風のようなものです)

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中国 泰山

蘇州には何度も旅行に行ったのに写真データが見つからず…代わりに泰山の写真をアップします。

※文中に表記できない繁体字簡体字は日本で通常使われている漢字を当てています。

※参考文献

 〈日本〉全釈漢文大系 春秋左氏伝 上・中・下 竹内照夫 集英社

     春秋左氏伝 上・中・下 小倉芳彦訳 岩波文庫

 〈台湾〉呉越春秋        趙曄著 張覚訳注 臺灣古籍出版社

     公羊伝        三民書局

     新譯 越絶書     三民書局

 〈中国〉中国史学要籍叢刊 左傳 上・下 上海古籍出版社

※最後に、ここに記すのはあくまでも私見である。